城門突破から数時間後。城の周囲に魔物が取りつき、残った兵士らと最後の戦いを繰り広げていた。

　そんな中、アードラーは空を飛び、裏口から悠々と侵入した。荒れた城内を歩き、大広間の裏手に地下室への下り口を見つけた。

「これか……」

　幾つもの蝋燭に照らされ影が揺れる。長い階段を降り、意匠の凝った扉を開けると、目の前に小さいながらも、威厳のある部屋が広がった。

　そこで待つのは二つの人影。いや、よく見ればそれは、美しい女神像と怪しげな男であった。

「遅かったな、待ちくたびれたぞ 」

　宮廷魔術師のバビヨンであった。

「そいつは悪かった。男と待ち合わせなんて楽しくもなんともないからな」

「私は楽しみだよ、真の主に仕えられる日がな」

「ふん……」

　アードラーは女神像の頭をペチペチと叩いた。当然、そこに神への敬意など存在しない。これは長年魔族を苦しめてきた呪いの像だ。

「お前さんもよくやってくれたもんだよ。俺はただ国王と勇者族を分断しろ、と言っただけだが、いやホント……えげつない真似をしてくれたな」

「国王が想定以上によく踊ってくれたものでな。アイツの望みを知っているか。皆に好かれる優しい国王様、だそうだ」

「あれだけ馬鹿やっておきながら？　そりゃすげぇな、好かれる要素が一ミリもねぇぞ」

「多少の誘導は勿論したが、本気でそう思っての事らしい。この世に私の理解が及ばぬ事があるとすれば、馬鹿の精神構造くらいだ」

　暗い含み笑いを漏らすバビヨンを、アードラーはどこか冷めた瞳で見ていた。

「それではアードラー、宮廷魔術師として宣言しよう。降伏する。国王の首が必要とあらば勝手に持っていけ。玉座で呆けているだけだから、蟻を踏み潰すよりも楽な作業だ」

　アードラーは無言で頷いた。肯定というよりも、ただ相槌を打っているような、どこか曖昧なものであった。

「外で戦っている奴らに戦闘を止めさせてくれ。この国の統治は私に任せてもらおう。食料と武具の一大生産拠点としてラシェッド様の覇業を助けようではないか」

「そうだな、王都を支配するのがお前さんの望みだったか」

「少し違うな」

　バビヨンの顔から、自惚れと嘲笑が消えた。そこにあるのはどこまでも真剣な、王族の家臣としての表情であった。

「平和と繁栄だ」

　愚かな国王の下では、人類を守る事は不可能である。

　頼りないリーダーも、教会の操り人形も、血統書付のチンピラも、魔力が高いだけの一般市民も、バビヨンの目に適う者ではなかった。

　なればこそ、バビヨンは魔王軍四天王の中でも、比較的話の通じそうなラシェッドの、その幹部であるアードラーに接触した。

　アードラーはつまらなさそうな顔で女神像の胸を撫で回していた。柔らかくもなければ楽しくもないが、男の妄言を聞いているより遥かにマシだ。

　その不真面目極まりない態度にバビヨンが不快感を示した時、アードラーは振り返りもせずに言った。

「それな、やっぱ無し」

「……どういう事だ。それ、では分からんぞ」

「お前さんを仲間に引き入れるとか、国王様にしてやるとか、そういう話だ。ぶっちゃけ、お前の事自体、御大将に伝えていないんでね」

「ふん、戯言はよせ。私なしでこの国をまとめる事など出来るものか」

「自分が有能だと信じている無能、という意味ではアイツに似ているな」

「な……ッ」

　バビヨンは怒りで言葉を失った。アイツ、が誰を指す言葉なのか直ぐに分かったからだ。誰よりも一番近くにいて、誰よりも軽蔑していたあの男と一緒にされるのは、彼にとって何よりの侮辱だ。

　ふざけるな、と怒鳴る為にバビヨンが腹に力を入れた瞬間、アードラーは振り向き様にレイピアを振るった。バビヨンの腹に横一文字の裂け目が入り、一拍置いて腸が飛び出した。バビヨンは膝を突き、ドス黒い血を大量に吐き出した。

「な、何故だ……ッ、これから大きくなるラシェッド軍に、私の様な人材は必要の筈だ。それが分からぬ貴様ではあるまい……」

「そうだな、何故と聞かれりゃ、そこでお前が何故って顔をしているからだ。他人を道具として切り捨てるくせに、自分が捨てられる事を予想もしていない。そういう底の浅い策士気取りなんて、いるだけ邪魔なんだよ」

　バビヨンはアードラーを鋭く睨み付ける。逆に言えば、それだけしか出来なかった。

　アードラーはレイピアの柄で女神像の頭を殴り付けた。頭部は砕け、周囲から神聖な空気が、魔族にとっては不愉快極まりない空気が薄れていった。

　これで勇者族復活のシステムは破壊出来ただろう。戦いに一区切りが付いた事に、満足げなアードラーであった。墓の中から響く様な、暗い笑いが背に向けられた。

「なんだよ死に損ない、気でも触れたか」

「ふ、ははは……。馬鹿が、やったな、やりおったな。女神像を破壊したな……！　それが貴様らの、終わりの始まりだ……ッ」

　負け惜しみかよ、その一言が出て来なかった。バビヨンの瞳は狂気に彩どられながらも、何か確信の様なものがあり、アードラーは気圧された。

「捨てられる可能性だと？　考慮していたに決まっているだろう。だから私は女神像の情報を必要最低限しか渡さなかった。そして詳しい情報は、アイツに流してやったぞ。このバビヨンの知略が貴様らを殺すのだ、ははは……」

　それだけ言い残してバビヨンはうつ伏せに倒れ、自ら流した血の海に沈んだ。

「おい、ちょっと待てコラ！　女神像が何だって？　アイツって誰だよ！？」

　アードラーは慌ててバビヨンの肩を蹴飛ばすが、何の反応も無い。死んだのだ。

　血と臓物の濃厚な臭いが充満する部屋で、アードラーは立ち尽くした。

「何だってんだよ、一体……？」

　砕けた女神像へと目をやるが、彼女は何も答えてはくれなかった。