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第29話 魔王軍の初撃

 刃が届くよりも先に、アッシュの目が見開かれた。


「白銀に氷結されし世界――」


 魔力の籠る右手が振り下ろされる。


「アイスバウンド!」


 アッシュを中心に、扇状に放たれる冷気の濁流。氷塊の雪崩。

 放たれた刃、そして後退しない魔族を生きたまま呑み込み、雪崩は城壁にぶつかり数百人の兵を一瞬で凍りつかせた。

 氷の山の坂道、城壁を駆け登る為の銀雪の“道”が出来上がった。


「なんだ、これは……?」


 人間だけでなく、多くの魔族も言葉を失っていた。


「ここまでやるか、アッシュ!」


 寸前で、城壁から飛び降りたロイが忌々しげに叫ぶ。

 アードラーは口笛を吹こうとするが、プシュッと息を吐いただけになってしまった。彼も冷静ではいられなかったようだ。

 瞬く間に戦場の雰囲気が一変。後から考えれば信じ難い事だが、両陣営共に、近くの仲間と顔を見合わせるばかりで暫く動けなかった。


 ある魔物が雄叫びを発し、氷の坂を勢いよく登った。釣られて一人、また一人と走り出す。状況が理解出来た訳ではない、ただ手柄を独り占めにされる訳にはいかない、その一心であった。

 何が起こったのかもわからぬまま、氷に巻き込まれて固まる魔物が透けて見えるが、お構いなしに踏みつけて前へ、上へ。

 時間が経っても人類側の動揺は収まらなかった。魔族側とは違い、状況を理解すればする程、絶望感が漂うのだ。


 身を守る為の城壁は役に立たず、城門が塞がれた影響によって打って出る事も不可能。ただひたすらに、城壁を乗り越えて内部に入った魔物へ対処するしかなかった。

 真っ向勝負、それは魔物と戦う際に一番やってはいけない事である。素手で猛獣に立ち向かうようなものだ。しかし他に道はない。怯える兵士の前に、牛の頭を持った屈強な魔物が立ち塞がり、涎を垂らして酷薄な笑みを浮かべながら、巨大な斧を振り下ろした。


 激しく吹き上がる鮮血。だがそれは兵士のものではない。牛の魔物の首なし死体を、当人が見ていた。一撃で首を飛ばされたのだと気付いて、魔物は意識を失った。

 噴水の如き返り血を浴びて尻をつく兵士。振り返ると、そこには人の背丈程もある巨大な剣を構えたロイがいた。


「怯むな! 面倒な奴は全部俺がぶっ倒してやる! お前らは決して一人になるな、囲んで袋叩きにしてやれ!」


 ロイが鼓舞すると、兵士達は勇気と正気を取り戻し武器を握り直した。

 たった一人で戦局を変え、味方の士気を上げる英雄の姿がそこにあった。ロイはまた風の如き飛び出し、血煙をあげて次の標的へと向かう。敵を斬り続けながら、ロイの不安は大きくなっていった。


 いつまでも戦い続けられる筈もない。一体どうすれば敵は退いてくれるのか、その勝利条件が分からない。今まではそんな事を考える必要はなかった、全て勇者アーサーが道を示してくれた。


「お前の事だッ、今も何かやっているんだろう!?」


 次から次へと際限なく魔物が現れ、ゆっくりと考え事をする時間もない。仲間を信じる他はなかった。

 全魔力を放出したアッシュはその場に崩れ落ち、膝をついた。ゴブリン二体が慌てて盾を捨て主人に駆け寄りその身を支える。


「旦那、ひとまず下がりましょう」

「ああ……」


 アッシュの顔は、闇夜にでも分かるくらいに青白い。

 森の奥へと引きずられ、大木に背を預けた。自身の魔力で凍えたかの様に指先が震えている。


「僕の内ポケットに魔力回復薬が入っている。悪いがこいつを飲ませてくれ」

「旦那、まだ戦うつもりですかい?」


 指一本も上げられぬほど疲労した主人に、ゴリンは不安げな視線を向けた。氷の坂を作って城壁を無効化した、これだけで大戦果ではないか。他に何を望むというのか。


「ラシェッド軍に人材なし、と思っているならそりゃあ舐め過ぎですぜ。幹部の皆さんがいます、ラシェッド様も後ろに控えています。皆さんに任せて、旦那はゆっくり休んで下せぇ」

「まだ勇者パーティがいる。僕が出れば、その内の一人は止められる」


 ほぼ勝利は決まった。しかし元仲間達を放置すれば、それだけ被害が広がってしまう。アッシュの目的は王都であり、国王の首だ。この砦は通過点。出来る限り、軍の消耗は抑えたいところだ。

 兎にすら負けそうなアッシュの瞳に危険な光が宿り、ゴリンは気圧される様に動く。薬の瓶を取り出し蓋を開け、アッシュの唇に当てて傾ける。だが、直ぐにむせて咳き込んでしまった。疲労で胃までも震えている様子。

 どうしたものかと悩んでいると、松明の灯りが近付いてきた。


 橙色の光りに照らされる、森にも戦場にも似つかわしくないメイド服。ヴェロニカであった。

 ヴェロニカは一瞥しただけで状況を理解した様だ。ゴリンの手から回復薬を抜き取ると、それを自分の口に含んだ。回復薬の代わりに松明をゴリンに手渡す。


「何やってんだおめぇ……」


 ゴリンの疑問を無視し、ヴェロニカはアッシュの前に屈み、頬に手を当てて固定した。

 直後、重なる唇。流し込まれる回復薬は恐ろしく苦いものであったが、その瞬間は味など感じる余裕はなかった。


「まだありますか?」

「ん? ああ、内ポケットに後三本ぐらいあった筈……」


 ヴェロニカはアッシュのマントに手を差し入れ回復薬を取り出すと、次々と口に含み、また口へと流し込んだ。

 全ての回復薬を飲ませ、名残惜しそうに離れる。互いの唇が糸で繋がり、弧を描いて切れる。ヴェロニカはハンカチを取り出しアッシュの口元を丁寧に拭くと、立ち上がり、静かに一礼した。


「失礼を致しました」

「あ、いえ、こちらこそ……。ごちそうさまでした」


 呆気に取られ、間の抜けた返事しか出来ぬアッシュであった。


「では、ご武運をお祈りしています」


 それだけ言って立ち去ろうとするヴェロニカを、アッシュは慌てて呼び止めた。


「ヴェロニカ、この戦いが終わった後で、僕が君に何を望んでいるか……ラシェッド様に何をお願いするのか知っているのか。その上で僕の武運を祈ってくれるのか?」


 ヴェロニカはゆっくりと振り返る。青い肌に微かな赤みが差している様に見えたのは、決して松明の灯りのせいではないだろう。


「はい。無事のお帰りをお待ちしております」


 優雅に反転し、足音も立てずに去って行った。

 残されたアッシュは目を丸くして、何も言えずにいた。ゴリンはニヤニヤと笑っている。盾を拾ってきたブリンは二人の様子を見て、何が何だかわからず首を傾げていた。

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