浮かれるブリンとは対照的に、砦が近付くにつれてアッシュの気分は沈んでいった。これから人間を殺さねばならない。以前村を襲った時とは比べ物にならぬくらい大量に。
かつての仲間とも戦わねばならない。彼らは悪人ではない、憎んでいる訳でもない。寧ろ人として尊敬している。しかしもう立場が違う。国王の首を取る為に、この砦を抜けねばならない。邪魔をするなら排除するのみ。もう後戻りする道などない。
城壁に吊るされた父と母と妹の姿を思い出す度に、全てを燃やし尽くしてやりたい様なドス黒い怒りが湧いてくる。
一方で疑問に思う。彼らはここまでの復讐を望んでいただろうか、と。
国王を殺す、そこまでは問題あるまい。だがその為に人類を敵に回すというのは、やり過ぎではないか。巻き込まれて殺される者達こそいい迷惑だ。
ならばどうすればよかったのか。勇者族の使命を捨てて、どこか山奥でひっそりと隠れ住むか。あるいは国王に疑いを持たせ、申し訳ありませんでしたと謝罪し、また何事もなかったか様に仲間たちと旅を続ければ良かったのか。
(……無理だな、出来る訳がない)
復讐は何も生まない、とはよく言われる台詞だが、アッシュからすれば愛する家族を無惨に殺されても、ヘラヘラとただ平和という言葉を語らっている様な奴は異常者としか思えない。
家族達の、空洞になっていた瞳はアッシュに何を求め、何を訴えていたのか。
分からない。分かる筈もない。
(考えても無駄な事だ。皆がいなくなったから僕はこうなったのだし、こうならざるを得なかったのだから……)
心がシンっと冷えていく。残酷な気分というよりは、他人の命に興味が持てなくなった。今だけはヴェロニカとの関係、浮わついた考えもも全て頭から消えていた。
まだ砦に着かないのだろうか。このままでは自分自身の憎しみで心が燃えて、燃え尽きてしまいそうだった。
遠くから争う様な物音が聞こえた。
「旦那、もうすぐ森を抜けますぜ――」
ブリンの声に、アッシュは仮面の位置を直してから頷いた。
木々の間をすり抜けると、懐かしき砦が。勇者パーティとして何度も通過し、宿泊した事もあった。部屋には旅の話を聞きたがる兵士が押し掛けてきて、よく眠れなかった。良い思い出であり、全て過去の話だ。
目の前に影が降り立った。大きく広げた翼を畳み、「よ!」と気楽に挨拶をした。ラシェッド軍の幹部であり、アッシュが何かと世話になっている男、アードラーであった。
「僕が行くまで戦闘を始めないんじゃなかったのか?」
「あの脳筋共にそんな複雑な命令が聞ける訳ないだろう」
「待て、すら出来ないのか。犬の方が利口だな」
違がいねぇ、とアードラーはいつもの様にゲラゲラと笑っていた。
敵が目の前にいるから倒す、多くの魔族にとってそれが当たり前なのだろう。相変わらず統率が取れていない。ラシェッドに一喝してもらえば流石に抜け駆けなどしないだろうが、そんな事でいちいち総大将を前線に呼び出す訳にもいかない。
対する人類は篝火を焚き、城壁の上から一斉に矢を浴びせている。城壁をよじ登ろうとする者や、城門を叩く魔族は一人、また一人と倒れていく。
魔力や身体的な面で人間は魔族に大きく劣るが、決して狩られるだけの弱者ではない。敵に回って初めて人間のしぶとさ、結束の強さを思い知らされた。美しいとすら感じる。
勇者族にだけ魔物退治を押し付けられていた訳ではない。皆それぞれがどこかで必死に戦っていた。負担が大きかったのは事実だが、自分だけがと考えるのは傲慢以外の何物でもなかっただろう。
全てがもう、遅い。
「アードラー、前線の馬鹿共に後退命令を出してくれ」
「そりゃ構わねぇがよ、素直に聞くとは限らんぜ。アイツらの馬鹿さ加減にまで責任は持てねぇからな。俺は鳥であってママじゃあない」
仲間の血と己が流す血を見て、魔族達は頭に血が昇り凶暴化している。また、城壁突破の秘策を新参者の人間が持っている、という事に反発もしていた。
「いいさ。警告を発する事で責任は果たした。従うかどうかは当人の勝手、それでくたばった所で知った事じゃない。精々個人の意思、というものを尊重してやろうじゃないか」
冷酷に言い放つアッシュをアードラーは咎めようとせず、それどころか笑って賞賛した。魔族の価値観としてはこれが正解らしい。
「ここで魔力を集中して五分後に放つ。君は巻き込まれない様にしてくれよ」
「はいよ。パッと伝えて直ぐに戻るぜ」
アードラーが軽く身を沈めた。次の瞬間には高く高く飛び上がっていた。土に深く刻まれた足跡が、彼の力強さを雄弁に語っていた。
「では行こうか。城壁から五十メートル程の地点だ」
「へい!」
二人のゴブリンが松明を投げ捨て、盾を斜め上に掲げて先行する。矢避けの盾に守られながらアッシュは人と魔物、両陣営に見せつける様に堂々と歩いた。
「なんだ、アイツは……?」
城壁の上で弓を構えた兵達が騒めく。彼らの多くはアッシュが生きており、敵側に回ったとは知らされていなかった。処刑される前に逃げ出したという噂程度は流れていたが、そうだったら、という希望でしかないと理解していた。
ここでいい、とアッシュは立ち止まり魔力の集中を始める。足元に、青白い魔法陣が浮かび上がる。城壁にまで冷気が伝わってくる様に思えた。
何が何だか分からないが、これはまずい、と判断した指揮官が声を荒げて叫ぶ。
「弓兵、奴を狙え! よじ登る魔族は白兵戦で対応しろ! 全ての矢をつぎ込んででも奴を止めるのだ!」
指揮官の叫びで兵達は我に返り、夜空に輝く月を隠す程の矢の雨を降らせた。
ほとんどがアッシュの前に辿り着く前に、凍りついてドサりと落ちる。抜けてきた矢はゴブリンの大盾によって防がれた。
「ひいぃ……! 怖い、怖い!」
「だはははは! 盾に矢が当たるって事は、それだけ俺達が旦那を守れているって事だ!」
泣き叫ぶブリン、正気を失った様に笑い出すゴリン。
矢の雨が止まり、次を準備しているであろうタイミングで、アッシュは二人の従者を下がらせた。
ゆっくりと掲げた右手に魔力が集まり、美しさと禍々しさが共存しながら光り出す。息を切らせて城壁に上がってきた男が、
「貸せ!」
と怒鳴って近くの兵から剣を奪い取り、アッシュに向けて投げつけた。五十メートルの距離を、勢い衰えずに進む必殺の刃――。
「死ね、死んでくれアッシュ!」
その男、ロイは悲痛に叫んだ。