闇の帳が降り、人間の世界が終わる。
夜の森に爛々と光る無数の瞳。ある者は復讐に燃え、ある者は血の惨劇に胸を躍らせていた。
木々をすり抜け、時には薙ぎ倒し、殺意に溢れた屈強な魔物数千体が人間の砦へと突き進む。
そんな中、ブリンは居心地が悪そうに背を丸めて歩いていた。夜目の利かぬ彼の主人の為に松明を掲げ、大きな盾を背負っている為、酷く目立つ。相棒のゴリンも同じ格好で、同じ様に気まずそうにしていた。
ゴブリン族もこの遠征に参加しているが、基本的に後方の荷物持ちか雑用に駆り出されていた。戦う者として前線にいるゴブリンは、この二人だけ。更にこうした立場を目障りに思う者も少なくなかった。
「ああ、臭せぇ。なんだかゴブリン臭せぇなぁ?」
下半身は蛇、上半身は人間の姿。ナーガと呼ばれる種族の魔物が、わざとらしく言いながら近づいて来た。
「おや、こんなところにゴブリンが。なんでだろうなぁ? 馬の糞拾いなら後ろでやってくれねぇか!」
「いや、俺達は……」
戦士としてここにいる、とまでは言えなかった。ブリン自身、どうしてこんな所ににいるのか分からぬくらいだ。
口答えされたのが気に入らなかったか、ナーガはブリンの首を掴もうと手を伸ばすが、その指先が一瞬で凍りついた。
「あぎゃぁ!?」
ゴブリン二体の間を歩く男が、仮面の隙間から冷徹な視線を覗かせた。
「僕の従者に何か用か?」
「何かじゃねえよ! テメェ新参者の分際で俺に盾突いて、どうなるか分かっていやがるのか!」
凍りついた右の指を、必死に溶かそうとしながらナーガが悪態をついた。そんな彼に追い討ちをかける様に、直後、蛇の下半身までもが凍りつき、地面に氷漬けにさせられてしまった。
「その新参者に手柄を持っていかれない様、精々頑張る事だな」
行くぞ、と従者達に声を掛けてから、仮面の魔術師は歩き出す。
「お、おい待て、待ってくれアッシュ! 俺が悪かった、この氷を溶いてくれよ!」
背後からナーガの悲痛な叫びが聞こえる。アッシュは答えず、ブリンに何事かを耳打ちした。
「……いいんですかね、そんな事言っちゃって」
「いいんじゃないか。それくらいの権利はあるさ」
主の許可が出た為、ブリンは振り返り大声で叫んだ。
「馬の糞でも拾ってろ!」
また歩き出し、相棒と顔を見合わせてゲラゲラと笑った。ただ虐げられるだけの存在であった自分が、中級魔族に言い返してやったのだ。それだけでも痛快であった。顔は見えないが、主もまた優しげな笑顔を浮かべているのだろう、という雰囲気が伝わってきた。
暫くして、アッシュは申し訳なさそうに言った。
「君達には居心地の悪い思いをさせてしまっているな」
「いえいえ滅相もない。こちらこそ守っていただきご光栄です。涙で溺れそうですわ」
「何を大袈裟な……」
アッシュは苦笑いで流すが、ブリンにしてみれば冗談でも何でもなく、本心であった。
ゴブリンがどれだけ尽くそうとも、報われることはない。魔族の間では弱者が強者の為に働く事、もしくは媚びる事は当然の事と考えられているからだ。そこに対価は発生しない。
庇護を求めてアッシュの部下になったものの、あそこまでしっかりと守ってくれるとは予想外であった。下手をすれば絡まれても完全に無視される可能性すらあった。いや、むしろそれが普通だ。
身を守ってくれる。立場を慮り、働きを労い、一人の男として扱ってくれる。それだけでブリンの目頭はじんと熱くなる様であった。
(ああ、死にてぇなぁ。俺は是非このお人の為に死にてぇ)
戦士として死ぬ為には、戦士として相応の力が必要だ。ブリンにはそれがない。悲しいが自覚はしていた。
「ねぇ旦那、俺はもっと強くなりてぇ。少なくともあんな蛇野郎くらい自力で殴り倒せるくらいに。強くなるって、どうすりゃなれるんですかね」
アッシュは首を捻って考え込んだ。やはりこの人は、ゴブリンの話なんかでも真剣に考えてくれる。ブリンは文句を抱かずに待った。寧ろこの時間が愛おしいとすら思う。
「僕は武術に関してはまるで役立たずだから、そっち系のアドバイスは出来ないが……」
「へい」
敵の攻撃を回避する為の体術くらいは身につけているが、基本的に氷の魔術と併用しての動きである為、少し特殊。他人の参考になる様なものではなかった。
「うん、生きて戻ったら武具を新調しようか。今は人間から剥ぎ取った物を使っているのだろう? サイズに少し無理があるかもしれない。身体にちゃんと合う物を身に付ければ、それだけで動きやすくもなるんじゃないかな。占拠した村に鍛冶屋もいた筈だから、彼に作らせよう」
「よ、よろしいので?」
「せっかく占拠したんだ、たまには使わないと勿体ないだろう。それと、魔法が使える様になれば何かと便利だろう。こっちの修行になら僕も付き合える」
「ですが……俺はどうもそっちの才能はない様で……」
「それは生まれつき使える訳じゃないってだけで、本格的に勉強や特訓をした事がある訳じゃないだろう。人間よりもずっと闇に近い魔族は、誰しも魔術の素養がある筈だ。どうする、やってみるかい?」
「是非! お願いします!」
今まではただ他人の雑用に追われ、修行や勉強など考えた事もなかった。アッシュの名を出せば、理不尽に時間を奪われる事もない。自分の人生を、自分の為に使えるのだ。
“飼われていた”事から“変われていく”。そんな実感が少しづつと湧いてきた。また泣き出したくなった。自分はこんなにも泣き虫だったのか、と意外であったが、悪い気分ではない。感情を殺す事でしか生きられなかった事の方が異常だった。
「装備がしっかりして、魔術も覚えられたとなれば、アッシュは部下を手厚く扱っているという評判にも繋がる。良い事尽くめだ、遠慮なく受け取ってくれよ」
「へい、ありがとうござんす!」
ブリンは深々と頭を下げた。アッシュの物言いはゴブリン達に遠慮をさせない為だと分かっている。
その気遣いがまた、嬉しかった。