深い、深い森の奥。頭一つ抜き出た巨木の根元に座り込み、瞑想するロイの姿があった。雨風に晒され、服も身体も薄汚れており、髭も伸びれば髪もボサボサ。

　自然と一体化したかの如く、微動だにせず、身体中を蟻や蛇が這い回ろうとも無反応である。

　頭の中では何百回、何千回と激しい戦いが繰り広げられていた。ラシェッドを相手に斧を握り締め、何度も何度も立ち向かい、同じ数だけ殺された。

　勝てない、勝ち筋すら見えない。良い所まで行く事はあるがそこまで。偶然でも気迫でも乗り越えられない、実力差という大きな壁に阻まれた。

　勇者族は人の限界を超えた存在だが、それでも高位魔族には届かない。何度も生き返るのは卑怯だなどと、魔族にだけは言われたくないものだ。

　今のままでは無理だ、ならば勝つために何が必要だろうか。

（仲間か……？）

　無理だ。ロイは悲しげに己の考えを否定した。

　アーサーとミリアナが王族から離れられない限り、もう二度と共闘など出来はしない。いつまでも決断出来ない彼らを、愚かと言う事はしなかった。彼らにもそれぞれの事情と都合というものがある。

　アーサーは勇者族筆頭、勇者の家系であり、王族への忠誠心は人一倍強い。王族を否定する事は、己自身と先祖を否定する事にもなる、と考えているはずだ。

（いや、捉われているんだろう……）

　受け継ぐべきは技と力、という戦士の家系には、そうしたしがらみが少ない方だ。

　ロイに家族はいない。母は幼い頃に亡くなり、父は技を受け継ぐ最終試練で自ら手にかけた。もしも母が生きていれば、自分は国王に向かって啖呵を切ることが出来ただろうか。危害が及ぶのを恐れ、耐えたままだった様な気がする。

　アーサー達とは立場が違っただけだ。ロイが彼らに比べて特別、決断力があった訳ではない。それは自覚していた。

　ミリアナの場合は更に話がややこしい。彼女の背後には教会が付いており、勇者族が国王から離れるとなれば、それはそのまま王族と教会の関係悪化に繋がるのだ。それこそミリアナ個人の感情など挟む余地もない程に重大。

　王族と勇者族が協力しなければ国が滅ぶ。少なくとも、彼女にとっては冗談でもなんでもない、事実だ。

　次にアッシュの顔が思い浮かび、それは処刑された彼の家族のイメージへと変わっていった。激しく込み上げる嘔吐感に、ロイは口を押さえて呻いた。瞑想が途切れ、虫や小動物が離れていく。

　決断が遅過ぎた。どうせ国王と対立するならば、何故あの時にやらなかったのか。アッシュの家族を保護して、その後に合流していれば、絶望した彼がラシェッド軍へと走る事もなかっただろう。

　あの時は国王に逆らうなどと考えもしなかった。ただ状況に流され、目の前の惨劇を見ているだけだった。勇者族の家族を処刑などする筈がない、と吊される寸前まで甘く考えていた。

　勇者族は人類の守護者ではなかったのか。アッシュの父の首に縄が掛けられ、城壁から突き落とされ首の骨が折れた瞬間、ロイ達は英雄たる資格を失った。

（仲間だ、なんて……言える訳がないよな）

　激しく咳き込み、気が付けば頬を熱いものが伝っていた。土を握り締め、肩を震わせて泣いていた。

　遠くで鳥が一斉に飛び立つ。誰かが強い闘気を発した様だ。そんな事をする奴の心当たりは一人しかいない。

「迷惑な野郎だ」

　ロイは涙を拭い、それでも足りぬと土を掬って顔に擦り付けた。表情を隠す為。泣いていたなどと知られたくはない。

　立ち上がり背筋を伸ばし、ゆっくりと息を吐き、止める。

「フンッ！」

　先程のものより強烈な闘気が放たれる。鳥が気を失って墜落し、虫も動物も周囲から完全にいなくなった。草木も意思があれば逃げ出したかっただろう。ロイの足元の草は一瞬で枯れていた。

　やがて走り来る二つの人影。今“最も見たくない面ランキング”の二位、三位が並んで来た。ロイはアーサーとミリアナに対して大きく舌打ちし、不機嫌さを全面に出す。

「国王の捨て犬が何の用だ？」

「……俺の主は国王じゃない、民衆だ」

「犬小屋の表札がまだ大事な様だな。で、何の用だよ。三度は聞かないぞ」

　拒絶されるとは思っていたが、これ程までとは予想外であった。アーサーは暫し言葉に詰まっていたが、やがて意を決して話し出した。

「砦にラシェッド軍が向かっている。迎え撃つ為、お前も力を貸してくれ」

「誰の依頼だ、国王様か？」

「俺からの頼みだ」

「同じ事だろう。嫌だぜ、お前らで勝手にやってくれ」

　追い払う様に手をヒラヒラと振るロイ。いつもアーサーの斜め後ろに控えていたミリアナが前に出た。

「あなた、勇者族としての使命は忘れていないって言った筈よね？」

「それがどうした」

「砦が落とされれば、多くの村が敵の前に晒される事になる。罪のない民が犠牲になるのよ」

　人類は少しずつ防衛線を広げてきた。村、砦、村という様に交互に存在する。砦が一つ抜かれたからといい、即座に国が滅ぶ訳ではないが、砦と砦の間にある村や街は魔族の脅威に晒される事となるだろう。

「罪のない民なら、もう見捨てただろう」

「だから後は何人死のうが関係ないと言うのか、もう二度と過ちを犯さないと誓うのか、貴方はどっち？」

　嫌な言い方をするものだと、ロイは大きく溜息を吐いた。国王と決別はしたが、人間を見捨てた訳ではない。勿論、勇者族としての誇りも。

「……分かった、砦には行ってやる。だがお前らとは別行動だ」

「何故？　協力しなければ危険じゃないの」

「お前らが国王の命令で、俺を後ろから刺さないとも限らないからな」

　英雄の名に泥を塗る様な侮辱。アーサーが激昂し、ロイの襟首を掴んだ。ミリアナも冷たい視線を送っている。

「する訳がないだろうッ、そんな事……！」

　そんな元仲間たちをロイは鼻で笑った。

「やるよ、お前はそういう奴だからな。言い訳さえ用意すればなんだってやる」

　そのまま睨み合っていたが、ロイの目がふっと優しげなものに変わった。

「国王から離れない限り、お前の評価はずっとこうだ。命令されれば靴でもケツでも舐める奴ってな」

「王族と決別すれば、人類はもう二度と一つにまとまる事は出来ない」

　どこまで行っても、二人の意見は平行線であった。アーサーは済まなかったと呟いて、手を離す。ロイも咎める事はせず、いいさ、と一言だけ言った。

「砦には来てくれ。頼む」

　悲しげな背中を向けて去るアーサー。アーサーを追おうとするミリアナが、足を止めて振り返った。

「私達、どうしてこうなっちゃったのかしらね……」

「分からねぇ。俺が言えた義理じゃないが、アーサーの事よろしく頼む。アイツの背中を守ってやってくれ」

　ミリアナはしっかりと頷き、アーサーを追った。

　一人残されたロイは暗い曇った空を見上げた。

　望まぬままに、何もかもが変わっていく。

「お前とも戦わなけりゃあならないんだな。本当に、どうしてこうなっちまったんだ……」

　その問いに答える者はない。

　虫一匹たりとも、彼の側にはいなかった。