ラシェッド城に運び込まれると、アッシュは有無を言わさず大浴場へと案内された。改めて何がとは具体的に言わないが、ずっと飛行していた彼は、色々と垂れ流し状態であった。
(まさか城にこんな場所まであるなんて、凄いな)
ここまで広くて熱い湯に浸かれるなど、王都でも王族や一部の貴族くらいなものである。風呂と言えば一般的に、大人が体を丸めて入れる程の古びた樽に、川の水を入れただけのものか、あるいはタライに水かお湯を張って、体を洗うかという程度のものだ。
無造作に伸びた髭を剃り、体を洗っていると、いきなり背中にお湯を叩きつけられた。何事かと振り返ると、そこには顔見知りのゴブリンが、桶を持って何やらニヤニヤ笑っている姿が。
「ゴリン……?」
だったよな、とうろ覚えの名前に不安があったが、どうやら正解。名を呼ばれたゴブリンは満面の笑顔を浮かべた。
「おー、ちゃんと覚えていてくれたか、こりゃ嬉しいねぇ。流石、氷虫を食った仲だな!」
「俺は食ってない。断じて」
美化された過去の思い出をしっかりと修正し、アッシュはゴブリンのゴリンと再会した。ふと君達ゴブリンは顔の区別がとてもつきにくい、という心の声が出そうになったが、それをわざわざ本人の前で言うタイミングでもないなと思ったのだった。
「お帰り記念に背中流してやろうと思ってな!」
「いや、そこまでしてもらわなくてもいいけど……」
「何言ってんだよ、これからラシェッド様と食事をするんだろ? 俺の役目として、その汚い姿でここから出すわけにはいかないんだよ」
ゴブリンから「汚い」と言われてしまったのは、きっと生涯忘れる事のない思い出になるだろう。地味にショックだった。
長旅と野宿、それから拘束されていたので風呂に入るどころか、体を拭く機会すらままならなかった様に思える。腕を軽く引っ掻いただけで、爪の先に垢らしきものが詰まるのを見ると、ゴリンに反論も出来なかった。
「じゃあ、お願いしようかな」
ゴリンは嬉しそうに背後に回ると、見た事のない物体で背中を洗い始めた。力の加減が上手くないのか、元々のガサツな性格のせいか少し痛いが、この汚れが落ちていく感覚は悪くない。
「なぁ、君は僕達はを恨んではいないのか?」
「恨む? 何でだ?」
「だって僕達は人間で勇者パーティだろ。前にこの城に攻め込んだ時、君の仲間を数多く殺した訳だから……」
「おいおい、案外つまんねぇこと気にする質なのな」
苦い物でも吐き出す様に聞いたアッシュに対し、以外にもゴリンの答えは、実にあっさりとしたものであった。
「まぁそんな強い奴が敵のままなら、そりゃあ憎ったらしいだろうけどよ、こうして味方になるなら頼もしい限りじゃねえか。なぁ!」
「……味方?」
「そりゃそうだろ、まさかこの期に及んで、これだけの待遇を受けて、今更そんなつもりはないだなんて言い出すつもりじゃないよなぁ?」
「いや、すまない、改めて少し驚いただけだ。まだ“味方”と言う響きになれていなくてな。勿論ラシェッド様さえ許してくれるのであれば、僕は仲間に入れて欲しいと思っているよ。まだ実感がまるで湧いていないけどね」
「ま、そんなのすぐに慣れるさ」
そう言って背中にお湯が掛けられる。温かくて気持ちいが、案の定、肌がヒリヒリとも痛む。だが、これもゴリンが一生懸命に洗ってくれた好意の証しと受け取る事にした。
「ここでは強さってのが一番だ。完全な実力主義ってやつだな。強けりゃ過去なんか誰もが気にしない。今強いかどうか、そしてこれから先、役に立つかどうかが問題だぜ」
「いいね、シンプルで分かりやすい。立場だの見栄だのだけで偉そうにしている奴にうんざりしていた所だから、その主義はとても嬉しくて有り難いね」
「順応が早いな。まぁ逆に言えばよ、強くなけりゃあ肩身の狭い思いをするって事になるがな」
いつも元気なゴリンの声は、どこか残念と言った溜息交じりであった。確かに彼はゴブリンリーダーやゴブリンメイジなどの亜種ではない、普通のノーマルタイプのゴブリンだ。彼にも何かと苦労があるらしい。当然と言えば当然だが、ここも完全な楽園などではない様だ。
「だからさ、お前が偉くなったら俺を従者にしてくれよ、な!」
「……僕の従者に?」
「ああ。強い奴の下に付くってのも、弱者の処世術の一つだぜ。だからなあ、頼むよ」
「まぁ……僕は魔族の生活にもここの環境にも不馴れで、気心が知れて色々と教えてくれる人がいるのは助かるけどさ」
「そうだろう、そうだろう! この城の事なら何でも知ってるぜ。便所の虫の出所から、食料倉庫のつまみ食いスポットまで、あらゆる事をな」
「でも君はラシェッド様の従者じゃなかったのかい?」
「恐れ多いぜ。そんな立派なもんじゃねえよ。いつも暇してるだけの雑用さ。だから何でもするし、何にも出来ねぇ。ラシェッド様の側にいられるのはいいんだが、ずっとこのままっていうのもな……。ってかもうこの話やめようぜ、なんか悲しくなってきた」
「分かったよ。じゃあラシェッド様に、君を付けてもらう様にお願いしてみよう。まぁ僕が偉くなれればの話だけどね。地下牢に逆戻りする可能性だってあるんだから」
ゴリンは裂けた口をさらに大きく広げて見せた。アッシュは食われるのではないかと反射的に警戒したが、どうやらゴリンは笑っただけらしい。どうもこのあたりの感覚や距離感がまだよく分からない。