国王は自らの私室に、誰よりも従順で忠誠心のある宮廷魔術師、バビヨンを招いて酒を交わしていた。
揺らめく蝋燭の炎に照らされたその顔は、何とも言い難い、不思議で不穏で怪訝な表情であった。
「辛いものだな、憎まれ役というのも……」
対するバビヨンは、杯を傾けるがほとんど飲んでおらず、唇を湿らせた程度である。
「アッシュの愚か者め、余を逆恨みして何たる態度。あの場で素直に謝罪すれば、許してやらぬでもなかったものを」
「国王様への忠誠心を見極める為に、必要な対処でした。今回の件で、他の勇者族達も心を入れ換え、これまで以上に国王に対して忠義を示す事になりましょう」
「だが貴重な戦力が一人減ってしまった事も事実。これで残りの勇者パーティで本当に魔王軍に勝てるのか?」
「闘志の見られない者が四人いるよりも、生まれ変わった本物の三人の方が、間違いなくここから役に立ちます。今は誰にも理解されないかもしれませんが、魔王を討ち取り世界に平和を取り戻したその時こそ、誰もが国王様を偉大で絶対的な王であると称える事でしょう」
「成程……。うむ、それもそうだな……」
王は納得したというよりも、納得したいといった様子で頷いた。
「今も余には最大の理解者が居る。それで間違いないな?」
杯を目の高さまで上げて、洒落た事を言ってやったという表情の王に対し、バビヨンは数秒の沈黙の後で深く頷いた。
「その通りでございます、国王様――」
その答えを聞いた国王は満足げに何度も頷くと、空になった杯に再び酒を注ぐ。浮腫んだ顔に加え、また少しだけ赤みが戻ってきていた。
アッシュの家族を処刑した後味の悪さを、酒と共に流してしまおうと一気に飲み干し、空になってはまた注ぐ。そんな事を何度か繰り返していると、突然扉が激しくノックされた。
「こ、国王様……! 一大事でごさいます!」
「なんだ、こんな時間に騒々しい」
「塔に収容していましたアッシュ・デトワールが、今しがた脱走しました!」
信じられない。国王は酔いが全て飛ぶ程に目を見開き、慌てて顔を扉へと向けた。とても良い雰囲気で話がまとまったばかり。なのにどうして次から次へと、こうも面倒な事ばかりが起こるのだと、腹の底から怒りが湧いてきた。
一方のバビヨンは表情一つ変えずにドアを開け、荒く息をつく兵士を落ち着かせながら、改めて報告を聞いた。
いきなり衝撃音が響き、塔が破壊された事、確認した時には既に見張りの兵士やアッシュの姿がなかった事、塔から少し離れた地面に見張りの兵士の死体があった事。諸々現場の情報を聞き出すと、バビヨンは即座に周囲の警戒と探索を命じ、兵士を下がらせた。
ドアを閉めて振り返ると、国王が怒りの形相で睨みつけていた。まだ酔いが回っているせいか、僅かに焦点が合っていない様に伺えた。
「誰もいない塔に放り込めと進言したのは貴様だったな、バビヨン。この失態にどう始末をつけるつもりだッ!」
「いえ。結果として、これが最善です」
「なんだと……?」
バビヨンは国王の怒気を目の前にしながらも、全く動じす事なく淡々と、自分の見解を国王に続けた。
「これで八割の憶測であったアッシュの裏切り行為が、完全に確定しました。これぞ値千金の情報です。仮に氷漬けにしておき、いざという時に奴を生き返らせたとしても、国王の為に戦うという最後の可能性も摘まれました。逆にその場で国王様に刃を向けていた事でしょう。最悪な危険を回避し、まだ使えるかも知れないという僅かな未練を断ち切る事も出来ました」
「うむ……」
「それにこうして奴が逃げたとなれば、国民に対してアッシュの裏切り行為を堂々と発表する事が出来ます。奴の一族を処刑した事で確かに残酷ではないか、という声も幾らか上がっていましたが、それも全て塞ぐ事が出来ましょう。寧ろ何よりも早く手を打った事で、国民から信頼度は上がるのみ。裏切り者には当然の処置であったと」
「そうだな、裏切りが確定した今、この様な事を許していては国の秩序が保たれぬ。人類の守護者たる勇者族ならば尚更。全て我々が正しいのだ」
「はい。愚かな民衆は女子供が泣いていれば、無条件でそちらが被害者だと思い込むものです。真に心を痛めているのは国王であるとは誰も理解しようともせずに」
「ふ、ふ……ふははは。凡人の大衆に、お前ほどの聡明さを求めるのも酷であろう」
国王はすっかり機嫌を直した様だ。問題は何一つとして解決していないが。
バビヨンは一礼し、国王の部屋を後にした。その表情は軽蔑するでもなく、媚びへつらうでもなく、氷の様に酷く冷酷な表情であった。
国王の権威を高める為に、関係ない無実の民を処刑し、そして英雄を陥れる。この様な業務は全て日常茶飯事。数え出したらキリがないだろう。
朝を迎えたら起きる、夜が訪れれば眠る。空腹になたら食事を取る。天気の良い日は畑を耕す。休みの日は散歩をする。
誰もが行う当たり前の事を、バビヨンもまた当然の如くこなしていく。それが日常。いつもと何も変わりはない。