アッシュはただ、夜空に浮かぶ月をぼんやりと眺めていた。他にする事もなければ、何も出来ない。この月が沈んで夜が明ければ、待っているのは処刑の二文字。頭を空っぽにして、最後の最後ぐらいは純粋な美しさだけを見ていたかった。
当然未練はある。悔しくない訳がない。もしも今、拘束もなく両手足、己の体が自由自在となるならば、微塵の躊躇もなく国王を殺せる。
先に処刑されてしまった家族には、本当に申し訳ない気持ちで一杯だ。事情はどうであれ、父と母と妹、家族は紛れもなく自分に巻き込まれたのだ。
もし死んだ後、あの世とやらに行けば謝る機会もあるだろうか、などと考えるが、アッシュは神の祝福を受けている身。言い換えれば、完全には死ねない身でもある。仮に処刑されて体だけが冷凍保存されるとなれば、恐らく魂は現世に留まり、彷徨い続ける事となるだろう。死後の世界に僅かな望みを託す事すら怪しくなった。
数時間先の事を考えるのも最早苦痛になり、再びぼんやりと月を眺めるアッシュ。するとその時、月の光の中に、突如黒い“点”が浮かび上がってきた。
やがてそれは徐々に大きくなって来る。そのシルエットは鳥――いや、人間か。とても速い速度でこちらに向かって飛んでくる。
ラシェッド軍幹部、鳥類と人間の融合、アードラーであった。
刹那、高く聳える塔の壁を蹴り壊し、アッシュが捕まっている牢へ豪快な入室。凄まじい破壊音が響き、塔の上から数十メートル下の地面へと落下していく、瓦礫の数々。立ち込める砂煙が次第に晴れていき、視界がクリアになっていくと、アードラーの何とも愉快そうな笑顔が、月光に照らされた。
「よっ、久しぶりだな。元気してたか?」
アッシュが答えるよりも先に、見張りの兵士が牢へ飛び込んで来た。
「な、何者だ貴様ッ! そこを動くな!」
勇敢にも、兵士は戦おうと剣の柄に手をかけるが、それを抜く前にアードラーの細くも頑丈な手が、兵士の頭を文字通りの鷲掴みにした。
「うるせぇ、邪魔」
ポイっと、鷲掴みされた兵士はアードラーが破壊した塔の大穴から、下へとあっさり放り出された。絶望の断末魔が叫ぶも、直後プツンと途絶えた。一人の命が呼吸をするかの如く自然に奪われ、何事もなかったかの様に静寂が戻る。
玉座の間で、アッシュの腹に蹴りをいれた兵士だと気付いたものの、「ざまあみろ」と言い返す暇もなかった。
「それで、何の用かな?」
「ウチの若がな、貴重な人間産の赤ワインが手に入ったから、彼を食事に誘ってみてはどうかとか言い出したからよ、こうして遠路はるばる俺が飛んで来たって訳さ。御呼ばれするかい?」
アードラーはどこまでも軽い調子で聞くが、この誘いに乗るという事はイコール、自分の意思で“人類から魔族”に寝返る事を意味している。まさか本当に赤ワインと豪華な食事を頂いて、はいさようならとはならないだろう。
今はラシェッド城を出た時とは全く状況が違う。王都に戻って勇者族としての使命やら何やら、全てを失った。仲間も、誇りも、尊敬も、愛も、全て奪われ踏みにじられた。最早この国に、アッシュがいる意味も残る義理もない。
「ありがとう。そういえばここ数ヵ月、まともな食事をしていなくてね。是非お受けしたい」
「OK、そんじゃ決まりだな!」
アードラーは気品のある翼をはためかせると、体が宙へと浮かび上がり、鋭い脚ででアッシュの両肩を掴み上げた。正直、脚の爪が肩に食い込んでおり、結構な痛さだ。だが家族が受けた屈辱や痛みに比べれば、こんな些細な事で文句を言うべきではないだろうと、歯を食いしばって黙っていた。
「一瞬でぶっ放すからよ、忘れ物とかないか?」
「……強いて言うなら、国王の首かな」
アッシュの言葉に一瞬の間を置いて、アードラーはゲラゲラと笑い出した。
「そうかそうか、だったらその獲物は“また”取りに来るとしようぜ。今は飯が先だ。遅いとまた若の機嫌が悪くなるかもしれねぇ、行くぞ!」
アードラーは凄まじい勢いで塔の外へと飛び出し、アッシュの体は感じた事のない浮遊感に包まれた。
伊達にラシェッド軍最速の男を自称していない。この飛行速度はかなりのものだ。とても速い。これならば数日でラシェッド城へと辿り着いてしまうだろう。あっという間に王都も小さくなり、次の瞬間には見えなくなっていた。
「お、どうしたぁ! まさかもう故郷が恋しくなって帰りたくなったか?」
凄まじい風の音に負けぬ大声で、アードラーが話しかけてきた。
「まさか! あんな小さな世界に囚われていたのかと思うと、自分が情けなくてねえ!」
「ハハハ、だったら泣いてもいいぜ! 今は月しか見てねぇからよ!」
「見た目に似合わず、随分と詩的な事を言うもんだな!」
「俺はラシェッド軍で一番ロマンチックな男でもあるからな! 本を読むのは好きじゃねぇけど!」
またアードラーは、一人でゲラゲラと笑い出した。
アッシュはふと顔の向きを変え、見えなくなった故郷をじっと見ていた。
「さようなら――。僕は自分の意思で故郷を出るよ。そして……君達の敵になる――」
その小さくも強い呟きは風によって掻き消され、月とアードラーにさえ聞こえていなかった。