アッシュが放り込まれたは、王都にある塔の最上階であった。罪人を詰め込んでいる一般の地下牢では、他の囚人と接触する危険性がある。人のいない場所が良いだろうというバビヨンの進言により、此処に連れて来られた。例え罪人とは言え、余計な事を話されては困る。といった所だろうか。
手足は変わらず拘束されたまま。芋虫の様に床に転がっていた。藻掻いてなんとか上半身だけを起こし、壁にもたれ掛かった。
何故だろうか。唯一ある小さな小窓から見える夜空の月は、こんな時でも美しく見惚れてしまう。
覗き窓の付いた分厚い鉄扉の向こうから、突如話し声が聞こえる。聞き覚えのある声。何年も聞いてきたから間違える筈もない。アーサーが鉄扉の前で見張りをしている兵士に金を渡し、中に入れてくれと交渉している様だ。
「分かった。ただし、五分だけだぞ」
兵士からの横柄な声がした直後、重たそうな鉄扉がゆっくり開いた。
勇者アーサー。これまでずっと、当たり前の様に共に戦ってきた仲間だというのに、今は彼が月の如く、とても遠い存在の様に思えた。
用があるから来た筈なのに、アーサーは惨めな姿のアッシュを悲しげな瞳で見下ろしたまま、数秒動かなかった。
「堕ちたもんだな……」
そう呟いたのはアーサーではない、アッシュだった。
「人類を救う勇者が、牢の仲間に会う為に雑兵に金を握らせなければならないとは」
「……ああ、情けないよなほんと」
「君はこういう不正を一番嫌うタイプだろう。いつだったか、どこかの関所を通るのに銀貨を渡すだけで済む話を、君は“正式な通行許可証がある”と言って暴れ回った思い出があるな。いつもトラブルを引き起こすのは決まってロイの担当だったけど、あの時だけ珍しく君を止める側になっていたな」
「ああいうのは一度許すと、やがてそれが当たり前になってしまうだろ」
「それにしても、剣を抜いて雷を引き起こすのは流石にやり過ぎだったかな」
アッシュはそう言いながら笑おうとしたが、一方のアーサーが変わらず難しい表情のままだったせいか、笑うタイミングを逃してしまった。出来れば、一緒に笑いたかった。
悪習や不正を憎むこの男が、信念を曲げてまで会いに来た。よほど大事な用件なのだろう、そして、よほど言いづらい事なのだろう。アッシュは急かすべきではないと判断し、暫し二人は無言となった。
月明かりに照らされる、アーサーの横顔。その口が重く、ゆっくりと開かれた。
「……なぁ、国王に謝罪しよう。勿論俺も一緒に頭を下げるから」
その言葉に、アッシュは怒りも悲しみも感じなかった。ただ、虚無感だけが心を駆け抜けていく。
「残念だが、謝罪しなければならない事が一つも無くてね」
「それでもよ……ッ!」
仲間の思いを踏みにじっている。アーサーにはその自覚があった。何故か説得している側のアーサーが今にも泣き出しそうな表情で、拘束されているアッシュが穏やかな表情をしているという、少し可笑しな状況となった。
「王都には五万を越える民が暮らしている。今もどこかで、魔物に虐げられる人達がいる。世界を救えるのは俺達、勇者族だけだ。だから俺達と、俺達を支援する国王はは協力しなければいけないんだ。国や民の為にも、全員が一つになっていないと……!」
この男は何も変わっていないな、とアッシュは心の底から安心していた。誰よりも勇者としての使命に忠実で、誰よりも人々を愛する、勇者パーティのリーダーだ。
「大義の為に、時には飲み込まねばならないものもある……!。頼むッ、分かってくれよアッシュ」
「……僕はこれから、どうなる予定だ?」
「明日の朝、処刑される事が決まってる。そして死体は氷漬けにして保管しておくらしい。頭と胴体を別々にしてな」
「氷の魔術師を氷漬けにしようってか……。笑えない冗談だな」
今後、魔王軍との戦いで戦力が必要になった時の為の備えとして保管しておくのか。あるいは魔術師の血を絶やさぬ為に、遺伝子だけ生き返らせて、子作りをさせて、また歯向かう奴は処刑しようというのか。
アッシュの脳裏に最悪な想像が幾つも湧いて出るが、その中に明るい未来は一つも想像出来なかった。
「お前を殺させやしない。処刑なんて絶対にダメだ。だからアッシュ、どうか一瞬だけ屈辱に耐えてくれ……! その後の事は、俺が必ず何とかしてみせるから、絶対にお前を守ってみせる!」
「……ありがとう、アーサー」
「アッシュ……?」
「でもさ、駄目なんだよ。今回ばかりはね。僕にも物事にも、何にだって限度ってものがあるでしょ。仕方がないでは済まされない事があるんだ。表面上だけでも王に跪く事は限度を超えたものであり、恐怖と絶望の中で死んでいったであろう家族に対する裏切りだ」
「分かってる。あの奴が愚かである事は認める。だけど、助けを待つ人々にそれは関係のない話だ。彼らが見殺しにされていい理由にはならない!」
「僕の家族も、殺されなければならない理由はなかったよ――」
アーサーはその言葉の中に、とても深くて暗い絶望を感じ取った。使命も、道理も、心配も、思いも、どれも今のアッシュを動かす事は出来ないだろう。
「……さよなら……だな、アッシュ。今更だけどさ、お前の家族……助けられなくて悪かった。ごめんな……」
「いいさ、別に君を恨んでいる訳じゃない。誰にだって立場がある」
アーサーは無言で立ち上がると、逃げる様にその場から去った。
立場。そんなものを守る為に、関係のない民を見殺しにしたというのか。国王の不興を買ったとしても止めさせるべきではなかったのか。
勇者族、英雄、氷の魔術師、選ばれし者。ずっと大切で誇りにしてきた使命が、今では何より重い罪の烙印であるかの様に感じた。