ラシェッド城から一番近い人里までは、徒歩で行くと一週間程度掛かる。以前ここへ来る時は仲間と一緒であったが、今は一人。野宿も、魔物と戦うのも一人でやらねばならない。
幸いと言うべきか、アッシュは魔術師であるが故、武具が無くともある程度は戦う事が出来る。敵が複数現れても範囲魔法で対処出来るが、大量の魔力を消費するので、相応に燃費が悪い。
何度か戦って、木の上で休む。その際も簡易結界を張って警戒しながらだった為、まともに眠れなかった。
結果、村へ辿り着くのに十日かかった。髭は延び放題の身体は泥だらけ。おまけに異臭をも放っていた。駐在する兵士に止められて、川で身体を洗わなければ村に入れてもらえなかったレベルだ。馬小屋と大差ない宿で三日間泥の様に眠り、出所の怪しい金を使い果たした。
魔族討伐の仕事でもないかと、顔見知りになった兵士に相談すると、魔王四天王の城が近い事もあってか、その類の仕事には困らなかった。兵士はニヤリと笑って詰め所へと手招きし、バランスの悪い机の上にびっしりと文字らしき物が書かれた羊皮紙を広げて、
「で、どれがいい?」
と、誇らしげに言ったものだ。
こうしてアッシュは時に森へ、時に洞窟へと行き、魔物を討伐した。一人なので時間は掛かったが、なんとかやれない事もなかった。
いっそ戦いの中で死んでしまえば王都に戻れる、と考えたが、それはなんとなくラシェッドやヴェロニカらに対する裏切りの様な気がし、止めた。必死に戦った結果として死ぬなら兎も角、わざと死ぬというのも癪である。
幾つか依頼をこなしたのだが、一つだけ問題があった。それは報酬が恐ろしく安い事である。王都でギルドを通した仕事ではない為、相場から下回るには仕方がないにしろ、大型魔物を倒して銅貨数枚というのは異常だ。汚職役人が売上を撥はねた方ががずっとマシだろう。
もう少しどうにかならないかと兵士に相談すると、彼はとても申し訳なさそうにして語った。
王都からこの村の防衛の為に出される費用は、恐ろしく少ないと。そもそも王都は、この村を見捨てて少し先の砦を、対魔王軍の防壁とする方針であった。彼らは村を守る為に無理を言って、魔王軍を見張る為に駐在するという形にしてもらったらしい。そうした経緯がある為、予算や報酬を上げて欲しいと強く言えないそうだ。
村を捨てれば家も畑も、全て失う事になる。別の土地で新たな生活を築く事も出来ずに、物乞いとして生きるしかないかもしれない。残るべきか去るべきか、それは村人達にとっては死活問題だ。安全な王都に住む人々が言う様に、凶悪な魔物がいるのだから移住するのが当たり前、とはいかない。
アッシュにもそうした事情は理解出来る。村を守りに来た兵士達を、立派だとも思う。しかし、自分がタダ同然でこき使われる事に納得出来るかといえば話は別だろう。王都に帰らねばならない理由もある。
だからまだ厄介な魔物は残っていたが、村人や兵士達の制止を振り切って旅立つことにした。
すると去り際に背後から、
「やっぱ勇者族も所詮は金なんだな……」
と声が聞こえて憤りを感じたが、なんとか抑えて立ち去った。
(悪いが僕にも事情がある。選ばれた人間を便利な道具とでも思っているのか……)
胸の奥に後悔だけが残った。たった一人で多くの魔物を打ち倒し、手にした物は擦りきれた銅貨と村人達からの恨みだけだ。
仲間達と再会して笑い合えれば、暗い気分も晴れるだろうか。そうと信じて、前へ前へと歩き出す。
何故か仲間達の笑顔というものを、上手く思い浮かべる事が出来ず、想像の中で彼らの顔は黒く塗り潰され、アッシュを嘲笑っていた。
**
防壁の砦を抜けると、明らかに魔物の数が減少してきていた。魔力を消費しないで済むのは助かるが、ここにきて疲れが出たのか、熱が上がり体調不良に。適当な洞窟を見つけ、何日か寝込む事となった。
次の街はまだ遠い。おまけに金もない。
(僕は何をやっているのだろう……)
暗闇の中で寒さに震えていると、己の惨めさだけを痛感する。自分を動かしているものは何だろうか。使命か、義務か、あるいは惰性か。
ラシェッドの城に残っていればよかった、などと考えてはいけないのだろう。それは人類や仲間達に対する裏切りであり、ラシェッド城に残れるはずもない。
氷の刃で太い枝を切り、削って杖とした。微熱と倦怠感、嘔吐に悩まされながらも、杖に身を預けてまた歩き出す。王都に行けば、そこに自分の本当の居場所がある。確信というより、どちらかと言えば祈りに近い思いであった。
**
約二ヶ月間も歩き続け、遂に王都へと辿り着いた。アッシュの目には、それはあまりにも眩しく、そこが天国であるかのようにさえ見えていた。
安堵から倒れそうになるが、なんとか踏ん張り堪えた。ここまで来て野垂れ死にしたのではあまりにも情けなさ過ぎる。最後まで自分の足で歩こう。
(帰ったらとにかく熱い風呂に入って、髭や髪も切ろう。破れた服も新調し、温かい飯も腹いっぱい食べたい)
考えるだけで楽しくなって、数ヶ月ぶりに自然と笑みが零れた。
また門番に止められるのではないかという不安はある。この姿で氷の魔術師アッシュだと信じてもらえるだろうか。不審者だと思わない方がどうかしている。それほど汚らしい格好だという自覚があった。
だがそれも仲間が証言してくれればなんて事はない。もしもの時は城を丸ごと氷漬けにでもして証明してみせようか。そこまでやれば信じるだろう。
心なしか軽くなる足取り。城門へ辿り着くと、その高い門からぶら下がる“三つの物体”が見えた。
“それ”、を見た刹那、アッシュの思考は止まり、手にしていた杖をカランと地面に落とした。
アッシュが見た“もの”――。
それは全裸で拘束され、縄で首を吊るされた男、女、子供――。
他ならない、アッシュの父、母、妹。
彼の家族の亡骸であった。
「……え……?」
何故。どうして。何が。分からない。
現実を理解する事を、脳が、理性が拒絶していた。
必死の思いで王都へ戻ったアッシュを迎えたのは、腐敗して虫にたかられている家族の死体だった。
直後、胃の奥底から熱いものがせり上がり、まだ消化し切っていない食べ物と胃液が地面にぶち撒けられた。
「な……何で……。一体何が……何がどうなってる……? ダメ……ダメだよ、早く降りないと……。ねぇ……何でそんなとこに……何で動かないの……ねぇ……ねぇってば……ッ!」
震える手が伸びるが、理性が目の前の現実を拒否し、体が思う様に動かない。上半身だけが抗って前のめりになり、バランスを崩してその場に倒れてしまった。身を起こそうとするが、震える指先が地面の土を抉るだけで、全く立ち上がる事が出来ない。
上手く息を吸えない。大きく口を開いてなんとか酸素を取り込もうとしていると、突如、体が別の理由で動かなくなった。
“封印魔法”だ――。
普段なら確実に対処出来るのが、今は心技体の全てが隙だらけ。簡単に術を通してしまった。
無理矢理体を動かそうとするが、やはり動かない。何とか頭だけを動かすと、そこに見慣れた三人の姿があった。
『勇者アーサー』、『戦士ロイ』、そして封印魔法をかけた『僧侶ミリアナ』だ。
地面に倒れ、言葉も上手く発せずに困惑し、絶望するアッシュ。ロイが無表情で進アッシュの髪を鷲掴むと、そのまま顔面を殴りつけた。
そして、アッシュの意識はそこで途切れてしまった。