雨で濡れた草木の香りが微かに漂う。
舗装されていない土の小道はいつもグチャグチャと不快な音を上げる。
「ふぅ、今日は久しぶりに仕事が見つかって良かった」
安堵の吐息と共に、整った顔立ちの少女は歩きにくい道を進みながら静かに呟く。
「あ、おかえりエレン!」
「エレンお姉ちゃん、今日お仕事だったの?」
エレンと呼ばれた容姿端麗な少女は、その金色の長い髪を靡かせながら自分に駆け寄って来た子供達に笑顔を向けた。
「うん、中々見つからなかったんだけど、今日は運良くね」
「いいな~、俺もまた何か仕事やりたいのにさ、最近全然ないよな。こっちにも仕事くれる人すら来ないし!」
「確かにね。でも今日私が聞いた話だと、最近隣の森林に“魔物”が多く姿を現しているんだって。それで都市の人達や商人さんも通れなくてこっちに来れないみたい」
「え、魔物……!?」
魔物という単語を聞いた子供達は驚きの表情を浮かべている。
「そう。だから2人も気を付けてね。早く家に帰った方がいいよ」
エレンは子供達を自然と促す。
もう日は沈みかけ、決して裕福とは言えないこの“難民街”の治安は良くない。子供は勿論、慣れた街の者でも女1人で歩くのは危険な時間帯であった。
「じゃあまた明日な!」
「おやすみ、エレンお姉ちゃん」
そう言って子供達は足早に帰路に着く。そして彼らを見送ったエレンも再び自宅へと歩みを進めた。だが。
「へへへ、こりゃ上玉な女だぜぇ」
次の瞬間、建物の陰からガタイのいい男が現れ、エレンの行く手を阻むように立ち塞がった。目の前の男は当然知り合いでも何でもない。瞬時に危険を察知したエレンは無言で男の横を素通りし、一気に走り出す。
しかし、ガタイのいい男とは別に隠れていたもう1人の男に捕まってしまったエレンは、驚きでバランスを崩し地面に腰を落とした。
「そんなに急いでどこ行くんだよ姉ちゃん。俺らとちょっと楽しもうぜ」
「ナイスタイミング! 危うく逃げられる所だった。それにしても本当にいい女だぜこりゃ」
「きゃッ……! やめてッ、どきなさいよ!」
卑猥な笑みを浮かべたガタイのいい男がエレンを押し倒し、馬乗り状態で彼女を見下ろす。抵抗するエレンであったが、相手は男。力では到底敵わない上に、体勢も圧倒的に不利だ。
「あ~、もう我慢出来ねぇ! 早く楽しもうぜぇ」
「ふざけないで! 早く離しなさいよ!」
ザッ。
エレンは掴んでいた泥を勢いよく男の顔面に投げつけ、不意を突かれた男の目に泥が入る。
「ぐあ! て、てめぇ……小癪な事すんじゃねッ!」
「ッ……!?」
「おいおい、折角のいい女なんだから顔は止めろよな」
「生意気に抵抗しやがるからだ!」
怒る男はエレンの顔に平手打ちをし、力尽くで黙らせようとする。殴られたエレンは頬が赤くなり痛みが響く。それでも彼女は逃げ出そうと必死に足をバタつかせ身を捩り、男から抜け出そうと藻掻いている。
ガッ。
「!?」
「いい加減諦めろ。大人しくしてりゃ互いに気持ちよくなって家に帰れる」
「へへへへ、そう言う事だ。分かったか女」
だが彼女の抵抗も虚しく、男2人に押さえつけられたエレンはもう1人では逃げられなくなってしまった。
この荒んだ難民街では盗みや強姦や殺しなどの犯罪は日常茶飯事。昨日まで隣にいた者がいつ男達のような本性を見せるか分からない。更に下衆なにやけ顔となった男は、エレンの服の裾からゆっくりと手を忍ばせた。
諦めた彼女は目瞑りスッと全身の力を抜く。それに気が付いた男達も無意識に力を抜いた。男達の本能は最早“それ”しか求めていない。
そして。
――シュ……ガンッ。
男達が油断したまさに一瞬。エレンは僅かに自分から体を浮かせた男の動きを見計らい、素早く拳を握り締めた彼女の突きは男の下半身の急所を勢いよく捉える。
「痛つッ……!?」
「おいッ、何してんだおまッ『――ズガン!』
ガタイのいい男が死角となり、エレンが取った行動を把握出来ていないもう1人の男。彼もまた一瞬の油断から掴んでいたエレンの足を離してしまい、その僅かな隙を見逃さなかったエレンは、すぐさま足を引き抜き、遂に跨る男達から抜け出す事に成功した。
加えて彼女はそこから動きを止める事なく、悶絶する男の顔面に蹴りを入れると、男達はドミノ式に地面に転がり倒れた。そして間髪入れず、エレンは護身用で太股に忍ばせていた短剣を取り出すと、釘を打ち付けるかの如くそのまま男の足に短剣を刺した。
「ぐああッ!?」
(今の内に――)
男の足から赤黒い血が流れるのを横目に、エレンは渾身の力でその場から走り去った。
「ま、待ちやがれクソ女ぁぁぁ……!」
負け犬の遠吠え。断末魔の叫び。
例えは分からない。だが確かに男の悔しがる声が難民街に響き渡った。
**
――ガチャガチャ、バンッ。
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
速度を落とす事なく全速力で駆けたエレンは一切の無駄な動きなく自分の家へと辿り着いた。1度も振り返らなかった彼女が次に振り返ったのは、家の鍵を閉めた時である。
「ハァ……ハァ……危なかった……」
難民街に住む者に“自宅”など存在しない。誰しもが管理すらされていない空き家を勝手に自分の住処としているだけだ。それでも祖父と暮らしていたこの部屋こそが、彼女が唯一安らげる場所でもある。
エレンは倒れ込むようにベッドへ寝転がると、今更ながらに先程の恐怖が体を襲ってきた。身を丸める彼女の前身は小刻みに震え、流しても変わらない1つの雫が頬を伝った。
(ゔゔッ……泣くな。泣いても何も変わらない。怖かった……。今日も家に帰って来られて良かった――)
綺麗な金色の髪の少女は伝う涙と震える体を懸命に抑えながら、今日という日をまた1日生き抜いた。