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第3話 牡丹雪

 これは現実なのだろうか。


 朝日が昇れば私は職場でいつも通りに業務をこなす。夫は自家用車のハンドルを握り北へと向かい、明後日には津軽海峡をフェリーに乗って海を渡る。そして函館の地を踏む。



信じられない。

夫が私の隣からいなくなるなんて。

信じられない。

もう二度と会えないかもしれないなんて。

信じられない。

これが現実だなんて。



 夫の横顔をじっと見つめる。



「沙奈さん。頑張って一人で生きて下さい」



 海を渡る夫の決意は変わる事はない。黒い旅行鞄の中には津軽海峡フェリーの片道乗船チケットが入っている。戻ることは無い。



「ほらもう仕事に行く時間だよ」

「うん」

「顔を洗って準備しなさいよ。あなたはいつも遅刻するんだから」



 寂しげな笑顔がわたしの背中を押した。私は震える指で白いワイシャツのボタンを一つひとつ丁寧に留め、制服のジャケットを羽織った。出勤前の身支度を終えると、夫がキッチンに立っていた。



(あぁ、そうだ)



 私の勤務時間は不規則だった。疲労困憊で玄関ドアを開けると、エプロンを着けた夫が笑顔で出迎えてくれた。部屋の中は温かく美味しい匂いがした。


 私がテレビをぼんやりと眺めて「ハンバーグが食べたいなぁ」と呟いた事があった。すると数日後にはダイニングテーブルの上に夫が作ったハンバーグが並んだ。食後のコーヒーを飲みながら一緒にYouTubeを見ていると、再生履歴に(ハンバーグの作り方)の動画が何本も表示されて夫は笑って誤魔化した。




 ふと見ると、夫の手には愛用していた日本酒の徳利が握られていた。



「何してるの?」

「俺が帰って使う時、埃が入っていたら嫌でしょう?」



そう悲しげな笑みを浮かべ、徳利にラップを巻く。



「これ」



 次に夫はリビングの窓辺に向かい、今まで気にも掛けなかった鉢植えのアイビーの蔦に指を絡めた。



「これ、生きてるの?」

「うん」

「そうか。じゃぁ、どれくらい伸びたか、見に戻らないとね」



そう言って振り返る。

この部屋に夫が戻って来る。

本当にそんな日が来るのだろうか。



「うん」



今夜、私がこの部屋の玄関ドアを開けた時、

この笑顔、

この声、

この温もりはもう、無い。


 時計の針は午前六時三十分を指している。



「さあ、遅刻するよ」



 黒いサンダルを履いた夫がマンションの玄関ドアを開ける。焦茶のブーツを履いて外廊下に出ると街灯に照らされた歩道に静かに雪が降っていた。


深呼吸。


 氷点下が温かな湯気の気配を掻き消し、私は現実に引き戻された。未だ静かな外廊下を二人並んでエレベーターホールへと向かう。一秒でも長く隣に居たい。けれど無情にもエレベーターは六階に止まっていた。私の背後から夫の指が伸びる。エレベーターのボタンを押す。絶望に近い言葉。



「沙奈さん、二年、三年、もしかしたら五年になるかもしれないから」



それ以上になるかも知れない。

ここには戻れないかも知れない。

覚悟をして下さいと釘を刺された気がした。

終わった。

私たちの一度目の結婚生活が終わった。


チーン


 夜明け前の真っ暗な空からはらはらと雪が舞い落ちて来る。凍てついた道に薄っすらと降る雪は一歩足を踏み出す毎にキシキシと鳴いた。



「沙奈さん、行ってらっしゃい」

「行ってきます」

「またね!」



 その時、私は振り返る事が出来なかった。



「きっとだよ!」



 少し白み始めた空を見上げると螺旋を描くように牡丹雪が舞い落ちて来た。



「またね!」



 通りから一本入った住宅地はどの家も暗かった。人の気配も、生活音もしない。まるで自分だけが世界から取り残されたような孤独感が込み上げる。喉の奥が熱く締め付けられた。



「絶対だよ!必ず戻るから!」



 等間隔に行儀よく並んだ街灯の下を一、二、三、四、五、と数えて歩いた。



「きっとだよ!」



 コートのポケットの中でぎゅっと握った手が冷たい。



「またね!」



八、九、十。



 私はいつの間にかひどく前屈みで俯いて歩いていた。LEDの白い街灯が足元を照らし、焦茶のブーツの爪先に降る。雪の結晶の一片まで見えるような気がした。あの家の角を曲がれば、マンションのベランダはもう見えない。



「沙奈さん、元気でね!」



 視界が歪んだ。私は振り向いてしまった。六階のベランダには夫がこれでもかと腕を伸ばし、両手いっぱい手を振っていた。



「またね!」



 夜明け前、私の耳に夫の切実な声が届く。



「またね」



 私は意を決して、路地の角を曲がった。堪えていた涙がダムが決壊するように溢れ出た。



「またね」



 牡丹雪が静かに舞い落ちる。私たちは別々の朝を迎え、白い息を吐く。






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