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第2話 戸籍謄本

トックン。


 私たちが籍を抜くに至ったのは、一枚の戸籍謄本から始まった。



かずちゃんと同じ戸籍じゃなきゃ嫌よ!」

、何を言っているんだ!」

「どうして私だけ一人の戸籍なの!?」



 和ちゃんとは私の夫。悲痛な叫びを上げたのは夫の養母である恵美子えみこ。夫は彼女の事を、と呼ぶ。この二人に血の繋がりは無い。


 恵美子はこの二十年間、義理の息子と二人で穏やかに暮らしていた。

身体の関係こそ無かったが、恵美子は長年連れ添った歳の離れた夫婦の様に、義理の息子と穏やかな老後を送る筈だった。


 そこに突然、義理の息子と恋に落ちた沙奈が現れ彼女は混乱した。しかも義理の息子に懇願され、私たち二人の婚姻届の証人欄に自身の名前を書き入れ、印鑑を押してしまった。気が付けば一人きりの戸籍謄本。



「和ちゃんと同じ戸籍じゃなきゃ嫌よ!」

「結婚したんだからの籍から抜けるのは当たり前だろう!?」

「どうして私だけ一人の戸籍なの!?」



 恵美子は混乱した。そして一つの答えに辿り着いた。



トックン。



「私、和ちゃんの事が好きよ。男として愛しているわ。」


 夫は北海道函館市で私生児として生まれた。高校卒業を間近に実の母親は子宮癌でその短い生涯を終えた。やがて夫は土木工事現場で鳶として働き始め、その飯場に手伝いに来ていたのが恵美子だった。



「重いだろ、荷物は俺が持つから」

「ありがとう」



 初めは買い出しの付き人として夫が抜擢された。毎週日曜日には一緒に町のスーパーへと出掛け、一週間分の食材を積んだ軽トラックの中でそれまでの人生を存分に語り合い親睦を深めた。夫は恵美子に亡くなった母親の面影を重ねるようになった。



「俺、税金払ってないよ。国民年金も払っていない」

「年金も払ってないの!どうするのよ!」

「もう遅いよ」



 夫には詳らかに出来ない過去がある。



「俺、真っ当な仕事に就きたいんだ」

「仕事、探せば良いじゃない」

「この名前じゃ無理だ」



 夫の名前はに載っている。



 何もかもが初面倒くさいと笑い飛ばす青年の横顔が寂しげに見えた恵美子は驚くべき提案をした。



「なら、私と養子縁組をしなさい!違う名前になって頑張りなさい!」



 数ヶ月前まで赤の他人だった二十八歳も年下の青年と養子縁組を結び、次の仕事に就く為の引越し代と当面の生活費用として現金二百万円を工面した。


 以来、恵美子は養母として惜しみなく義理の息子に深い愛情を注いだが、心の奥底には熱い恋情を秘め、この二十年間を生き、それが続くと信じて疑わなかった。



「ねぇ、沙奈さん。」

「はい。」

「私ね。」

「はい。」

「和ちゃんの事は男性として好きよ、愛しているわ。」

「そう、ですか。」



 私は衝撃的な恵美子の告白に驚いたが、常日頃から彼女の夫に対する立ち居振る舞いにを感じていた。腑に落ちた。




 そしてあれは七月の末。婚姻届を出して数日後、買い物に出掛けた私は駐車場から近い階段を登り、部屋のディンプルキーを鍵穴に差し込んだ。熱を帯びたアスファルトに陽炎が揺らめく暑い日だった。



ミーンミンミンジー

ミーンミンミンジー



 アブラゼミが忙しなく鳴いている。照り付ける太陽が少し傾き始めた頃、玄関ドアを開けると私の影がリビングまでのっぺりと伸びた。


「あれ?カーテン、閉めたっけ?」


 開け放して出掛けた筈のカーテンが閉まり、東向きの部屋は薄暗かった。目を凝らすとフローリング張りの廊下の奥にがあった。


「ヒッ!」


声にならない悲鳴。

悍ましさに足が竦んだ。



 恵美子が気に入り選んだという、山吹に大柄なオレンジの花がプリントされたカーテンが揺れる逆光の中にが浮かび上がった。


恵美子が座っていたプラスチックの白い椅子

梅干しを漬ける樽

重石

それがまるでオブジェの如く積み上げられていた。


 重石の上には新聞広告の裏紙が一枚置かれていた。細いボールペンの文字、この達筆は恵美子のものだった。女の執念を感じた。丁度その時、背後に人の気配がした。夫が呆然としていた。



「くそっ!」



 積み上げられた樽を一瞥した夫は紙をグシャグシャに丸めるとゴミ箱に投げ入れ踵を返し恵美子の部屋に向かった。その頃から、恵美子と夫の間でかなり激しい言い争いが度々起こる様になっていた。三人で何とか上手く暮らせると思っていた夫はひどく動揺して声を荒げ、抑えきれない恋情が溢れ出した恵美子は手当たり次第に物を投げつけ号泣した。





 そしてある日突然



「函館に戻るから」



 夫の言葉に私は耳を疑った。


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