浅い眠りの中で不意に目が覚めた。
ベッド脇のカーテンの隙間から外廊下の蛍光灯の明かりが漏れている。先程までの雪を巻き上げて吹き荒ぶ風は何処に消えたのだろう。薄暗闇の中で大きな背中が小刻みに震えているような気がした。堪えようもない微かな嗚咽。夫がダブルベットの隅で私に悟られぬ様にそっと涙を流していた。
夫が、泣いている。
声を掛けようと手を伸ばすと、その気配に気が付いたのか夫は何も言わずにベッドを抜け出し寝室のドアを後ろ手にそっと閉めた。リビングからティッシュペーパーを箱から引き出す音。鼻を啜る音が交互に続いた。枕元の時計の針は午前三時を少しすぎた所だ。秒針の音が無情にも時を進める。すっかり目が覚めてしまった私は夫の背に伸ばした手の行き場もなく、彼が泣き止むまでしばらくの間、このベッドで待つ事にした。片方の温もりが少しづつ冷たくなるのを感じて胸がぎゅうと痛む。
午前三時十五分。
二人に残された時間はもう僅かだった。ウールのタータンチェックの青いストールを肩に掛けてリビングに行くと、ストーブの芯は黒いまま。夫は暖も取らず冷たい濃紺の革張りソファーに沈み込んでいた。
「どうしたの、眠れないの? 」
夫が眠れない意味など分かりきっていた。
「そうじゃない」
夫の目は真っ赤で豊かなまつ毛が濡れていた。テーブルの横に置かれた背の高い白いゴミ箱には丸められたティッシュペーパーがこんもりと山になっている。私はそれに気が付かない振りをした。
「寒いから、風邪ひくよ?」
シュッ
マッチを擦って石油ストーブに火を点けた。ぶすぶすと灯油の燃える臭いが仄かに立ち込め、それはやがて青白く徐々に赤みを帯びた。ストーブの上に乗ったヤカンを持ち上げると思いの外、軽かった。キッチンで水道のカランを回す。溢れ出す、思い。
「なんだか目が覚めちゃってね。眠れないんだ」
すっかり冷えた夫の傍に腰掛け、その肩にもたれ掛かった。
「そうだね。眠れないねぇ」
夫の顔をまじまじと見つめた。夫のへの字になった口元や頬のラインが好きだった。ゴールデンレトリバーのようなあどけない笑い皺の出来る目尻、けれど時々険しくなる眉間、切っても切っても伸びて来るフサフサの眉毛、ふんわりとした癖っ毛の髪、豊かに垂れた柔らかい耳たぶに触れた。夫はわたしの前髪を手の平でかき上げると、ほんのりと薄い眉毛の流れを確かめながら額の肌触りを味わっている。
「この顔立ちがとても好きだったよ」
「私も。私も好きだった」
夫の目に私が映っている。指で眉毛を撫で、頬骨のラインに沿わせ両手で包み込む。
「嘘みたいだね。」
夫が私の、私が夫の頬の感触を確かめ、自然と唇を重ねていた。どちらかともなく吐息が漏れた。石油ストーブの炎とお互いの体温が混ざり合ってあんなに冷え切っていたリビングが今は心地よい暖かさで満たされている。
カカカ、カンカンカン。
カンカン。
石油ストーブの上でヤカンから湯気が立ち始めた。時折思い出したようにトックンと灯油のタンクが喉を鳴らす。時計の秒針が規則正しく時を刻み、互いの心臓の鼓動がそれに続く。
「離れたくない、沙奈さんのそばに居たい」
「そうだね離れたくないね」
どちらからともなく腕を伸ばして抱きしめあう。互いが確かにここに居たのだと確認する様に、背中に回した指に力を込めた。
カカカ、カンカンカン。
石油ストーブの上で熱々になったヤカンが湯気を立てている。
トックン。
思い出したように灯油のタンクが喉を鳴らしてストーブの芯がぼうっと赤くなった。
トックン。
静かだ。な夜が明けてゆく。
私たちは昨日、籍を抜いた。