――確かに、予兆はあった。
ドラゴンと遭遇する数分前。
あれだけ悪臭と薄暗闇と異形のモンスターに覆われていた森が、ある場所を堺に不意にその姿を変えたのだ。
木々は緑色を取り戻し、梢の隙間から陽光が差し込む。時間的な影響で陽の光は柔らかく、夕焼けの色を帯びていた。
息苦しさに口元の布をずらすと、口や鼻から清浄な空気が肺に飛び込んでくる。
かつて『いせスト』で見たような、神秘的な森。
刻哉とリコッタは、思わず何度もその場で深呼吸した。ただ空気を吸っているだけなのに、身体中の細胞が生き返るようだ。
リコッタから見ても、そこは見慣れた森の姿だったのだろう。刻哉にはわからない異世界語をつぶやきながら、目尻で涙を拭っていた。
もうすぐ拠点に到着するそうですよ――とフィステラが嬉しそうに話した。
そこまでは、よかったのだ。
川沿いから外れ、さあいよいよ目的地だと木々の間を抜けた直後、刻哉たちは巨大なドラゴンに睨まれたのである。
外観と大きさは、アダマントドラゴンとよく似ている。
刻哉が倒したソレの表皮が金属のようだったのに比べ、目の前のドラゴンは蛇のように軟らかそうな肌をしている。背中と翼を中心に、濃い緑色の苔に覆われていた。ところどころに、鉱石のような黄色い石が張り付いている。
ドラゴンは大地に首を伏せた状態で刻哉たちをじっと睨んでいる。その大きな瞳は金色をしていた。
刻哉は動画を思い出す。いせストが世に広まりだした頃。この森の奥地に棲息するドラゴンを、彼は画面越しに見たことがあった。
確か名を――ヴァルトドラゴン。
初期のプレイヤーたちを待ち受ける、ボス的存在。
――リコッタが耳と尻尾を立てた。後ろを勢いよく振り返る。
いつの間にか、ヴァルトドラゴンがその長い尻尾を刻哉たちの背後に忍ばせ、退路を塞いでいたのだ。
モンスターを避けて、避けて、避けた先で。
圧倒的な存在に、行く手を遮られたのである。
「……そんな」
フィステラがつぶやき、刻哉を見た。隣のリコッタも同じく鍛冶師の青年を見上げる。
彼らは今、戦う手段を失っていた。
モンスターの気を逸らす。一撃入れてすぐに離脱する。突発的な襲撃に対応する。ここに来るまでに、そうして少しずつ武器を消耗した結果、今、彼らの手には武器らしい武器は残っていなかった。
いくら戦闘を回避しようとしても、大量の敵から完璧に隠れ通すことはできなかったのである。
咄嗟にリコッタが地面を探り、投げつけられそうな石を拾い上げる。
フィステラもまた近くの木から枝を折り取る。
ふたりとも、表情には焦りと不安が色濃くにじんでいた。
この巨大な偉容を誇るドラゴンに果たして通用するのか。手のひらに収まるような石が。片手で折れてしまうような小枝が。
「トキヤさん……」
「トキヤ」
ふたりの声を聞いた刻哉は
ずしん、と重い音がした。リコッタが肩を震わせる。
刻哉たちの背後に回された尾が、リズムを取るように上げ下げされていた。ドラゴンにしてみれば何気ない動きだろうが、ちっぽけな人間たちからすれば、すぐ後ろでギロチンが動いているような感覚である。
ヴァルトドラゴンは睨み続けている。
不意に、リコッタが刻哉の腕に抱きついた。思いっきり、彼の匂いを嗅ぐ。
そして一言、何かをつぶやくと、拾った石を抱えて前に飛び出した。
「リコッタさん、ダメです!」
フィステラが叫ぶ。
獣人少女は自分の身を犠牲にして、刻哉たちを逃がそうとしたのだ。
リコッタはただの石を投げつけようと振りかぶる。
直後、ヴァルトドラゴンがゆっくりと口を開いた。
樹一本、丸ごと噛み砕けそうな大きな口。口内にも鉱石らしき突起がある。あれに食われれば、飲み込まれる前に身体を貫かれて絶命するだろう。
リコッタが恐怖に縛られ、動きを止めた。
石を振りかぶったまま、その場に立ち尽くす。端から見てもわかるほど、リコッタの手は震えていた。
その手を、後ろからつかむ者がいた。刻哉だった。
我に返ったリコッタが必死に訴える。言葉はわからなくても、『ここから逃げろ』と伝えようとしていることは刻哉にも理解できた。
少し考えて、刻哉は彼女の頭を撫でた。飼い猫にするように撫で続けると、ゆっくりとリコッタの耳と尻尾が下がっていく。彼女は諦めの表情に変わっていった。
刻哉はちらりとドラゴンの口を見やり、それからリコッタの手を引いて数歩下がった。
すると――ヴァルトドラゴンはゆっくりと口を閉じる。
ドラゴンの金色の瞳を、刻哉はじっと見つめた。
フィステラが恐る恐る隣にやってくる。刻哉は言った。
「フィステラさん。君はドラゴンと会話できたりする?」
「た、試したこともありません」
「そっか」
肩をすくめた刻哉は、あろうことかドラゴンから視線を外した。
辺りを見回し、平地の向こうに一軒の小屋が建っているのを見つける。小屋を指差し、リコッタに話しかける。
「リコッタ。あれが君の言っていた拠点小屋かい?」
「――」
身振りで、刻哉の言わんとしていることは理解したのだろう。
獣人少女は目をまん丸に広げて刻哉を見上げ、やがてぎこちなくうなずいた。
刻哉は小屋を観察する。
損傷はなさそう。水車も備わっている。水路も無事。周囲は日当たりもよく、開けている。やろうと思えば畑も作れそうだ。
「良いところだね」
満足げにつぶやいて、刻哉はリコッタを連れて小屋へと歩き出した。
慌ててフィステラが後を追う。
「ト、トキヤさんっ……!」
「なに?」
「あの、龍は。龍は無視して大丈夫なんですか!?」
「んー」
刻哉は振り返る。ヴァルトドラゴンはしっかりとこちらと目を合わせてきた。
彼は言った。
「とりあえず、小屋で休もう。それが先だ」
「え? え、えええっ!?」
大混乱するフィステラをよそに、刻哉は暢気に背伸びをする。
「相手に戦うつもりがあるなら、俺たちはもう死んでるよ」
あっさりと言う。
刻哉の頭には、いせスト動画の記憶があった。
チュートリアルダンジョンのボス的存在だったヴァルトドラゴン。奴は、プレイヤーが攻撃しない限りその場を動こうとしなかった。
「それに、アダマントドラゴンのときと比べて怒った気配がなかったからさ。だったら、こちらのやりたいようにさせてもらった方がいいじゃないか」
――背後でヴァルトドラゴンが動く気配。
ひっ、と息を呑む少女ふたり。
振り返る刻哉。
ヴァルトドラゴンは起き上がると、大地を揺らしながら一歩、二歩と刻哉たちに近づく。長い首をもたげて、こちらを見下ろしてきた。
いつもは無表情な顔を、刻哉は少しだけ緩ませた。
「よろしくね。お隣さん」
ふん、とヴァルトドラゴンが鼻で笑ったような気がした。