ぱしゃん、と水音が立つ。
リコッタを先頭に、川沿いを歩く刻哉たち。
すでに周囲は木々で覆われ、歩ける道は限られている。靴は水を含んで重くなり、岩場を踏むたびにごぼんと鈍い音を立てた。
臭気と殺気と足音を打ち消すような、
――刻哉たちは、川を
リコッタの拠点を目指すのである。
森から流れてくる水が澄んでいる――それが、刻哉の選択理由だった。
「リコッタさん」
最後尾を行くフィステラが呼びかけてきた。リコッタは周囲の警戒に忙しい。ただでさえ、森の臭気は予想以上の不快さなのだ。布を二重にして口鼻を覆っているが、
これ以上、
再びフィステラが呼ぶ。それでも無視していると、刻哉がリコッタの肩を軽く叩いてきた。獣人少女は肩をすくめた。
口元を覆う布越しに、くぐもった声で返事をする。
「……なに? 大精霊様」
「少し、お話をしようかと思いまして。リコッタさんが使っていたという拠点は、どういう場所なのかと」
「大精霊様は、今のこの状況を理解してる?」
布の下で歯を剥き出しにしながら詰問する。
「そこら中にモンスターの気配と臭いがする。ここは敵地のど真ん中なんだよ。危機感がなさすぎる」
「う……すみません。ただ、このような場所に構えた拠点がどんなものなのか、興味があって」
フィステラがちらりと刻哉の背中を見る。
その仕草で、リコッタは察した。おそらく、刻哉が興味を持ったのだ。彼が疑問を投げかける前に聞いておこうと思ったのだろう。
ため息をつきながら、答える。
「別に。普通の小屋。水場が近くにあって、日当たりのいい場所もあったから、暮らそうと思えば暮らせるくらいの場所。ずっと前から、少しずつ道具とか保存食とか運び込んでた」
「そうなんですね」
「でも、森がこんな風になる前のことだから。小屋が無事である保証はまったくない」
「そ、そうなんです、ね……」
「うん。だから皆死ぬかも。拠点にたどり着けても、たどり着けなくても」
あっさりとリコッタが言うものだから、フィステラはしばらく言葉を失った。
ちらりと、獣人少女は振り返る。
「けど、わたしはそんなに怖くないよ。トキヤに出逢う前は、もうほとんど死んだも同然だったし。きっとトキヤも、死ぬこと自体はそんなに怖がってないよね」
「それは……。そう、かも、しれませんが」
歯切れ悪く頷くフィステラ。彼女は再び刻哉の背中を見る。
森の拠点へ向かおうと告げたとき。最初に森へと足を踏み入れたとき。そして今、このとき。
刻哉の様子は変わっていない。歩幅も一定。さすがに臭いは気になるのか、布きれを口元に当てて、静かに呼吸をするようにしている。
このような危機的状況でも平常心を失わない。それは驚くべき精神力であり、長所である。
――そのように、リコッタは好意的に見ていた。
だが、大精霊様は違う印象を持っているらしい。
「本当に、トキヤさんは変わっています。日が経つ
「なに? トキヤを侮辱する?」
「ち、違います。ただ、頼もしさよりも恐ろしさを感じるんです。私は」
やっぱり侮辱ではないかと思っていると、フィステラは目を細めた。周囲を舞う蝶が、心なしか色をなくす。
「トキヤさんは、いつまた命を投げ出すような真似をするか。私はそれが不安で仕方ないのです」
「……」
リコッタは前に向き直った。
リコッタが惹かれた刻哉の瞳。その輝きは強くしなやかな意志を放っていたが、同時に、人として何か致命的なものを置き忘れているようにも思えた。確かに、そう感じた。
けれど、それが何だというのか。
こちらの世界の人間に、刻哉ほど『純粋な』瞳をした者はいないだろうとリコッタは思う。
刻哉は決して死にたがりではない。少し前のリコッタのように、生きることに疲れているわけでもない。
ただただ、死を怖れていないだけだ。
きっと彼は、ギリギリまで抗う。恐怖や不安に惑わされず、たとえ力及ばないことがわかっても、最後の最後まで立ち向かうだろう。
そうやって彼が死地に飛び込むというのなら、わたしが守ればいい。
そのための力は、他ならぬ刻哉がくれたのだ。
――リコッタは歩幅を緩めると、刻哉の隣に並んだ。
彼の腕をぎゅっと抱きしめる。
「……?」
刻哉が不思議そうに首を傾げる。リコッタはもう一度、力を込めて腕を握った。
フィステラが反対側に並ぶ。遠慮がちに彼の肩に手を置きながら、何事か話しかけていた。きっと、さっきまでの会話を翻訳して伝えているのだろう。
「そういえばリコッタさん」
大精霊様が話題を変えた。
「リコッタさんは、どうしてクィンクノーチから離れなければいけなかったのですか?」
「それ、トキヤからの質問?」
「いえ。精霊として、私は知らなければいけないと思ったのです。あなたほどの方が、私たち精霊のせいで追放されたのなら、その理由を」
生真面目な表情である。
リコッタの視線が鋭くなった。
「大精霊様が知ってもどうしようもないよ」
「ですが」
「……わたし、
「洗……脳?」
「知らないの? 本当に?」
眉間に深い皺が寄る。
「街のほとんどの人たち、精霊様の言いなり。人形みたいなチーターも喜んで受け入れた。精霊様が来てから、皆が一気におかしくなった。だから、洗脳」
「……」
「わたしは、わたしたちは、抗った。抗って抗って、あっけなくチーターにやられた」
刻哉の手がそっとリコッタの手に被せられた。そのときになって初めて、リコッタは食い込むほど強く彼の腕を握りしめていたと気づく。
刻哉は、いつもと変わらぬ表情でリコッタを見つめていた。
いくぶん落ち着いた声で、それでも黒い感情を完全には消せずに、獣人少女は言った。
「だからわたしは、精霊が嫌い」
せせらぎに三人は包み込まれる。
――不意に。
リコッタが耳と尻尾を立てた。同時に刻哉たちを背後に庇う。
突然のことにフィステラが
「リコッタさん!?」
「油断した」
額から一気に噴き出してきた汗が、口元の布を湿らせる。
臭気と殺気が、夜の
ナイフ
「囲まれてる。周り、全部」