ざっと見積もって、約三秒。
アダマントドラゴンの巨体が、予備動作なく刻哉たちに突進してきた。
大口を開ける。牙は長く、鋭く、表面に細かな傷や汚れが見て取れた。恐ろしくリアルな凶器。
約三秒。喰われるまであと、三秒ほどだ。
ゆめKoが無残に倒されたシーンを目の当たりにした刻哉は、アダマントドラゴンの強さを肌で感じている。
勝てる勝てないのレベルではない。戦うこと自体が無謀な試み。
利き腕は骨折で動かない。
視界は半分血で染まっている。
リュックの中身は崩落の衝撃で再び散り散りに。あるのはベルトに差したフォールティングナイフ、壊れたスマホ。
防具と呼べる防具はなし。
アダマントドラゴンの攻略法など知らない。
自分がこの世界に来てどんなスキルに目覚めたのかわからない。それどころか、スキルの存在すら曖昧だ。
隣にいる異世界の少女は、事態打開の手立てを持たない傍観者。
ここから三秒でひっくり返せるか。
――詰んでいた。
刻哉はこれまでで最も深く強い集中状態に入っている。死地で脳と身体がフル回転している。
音が遠くなる。
景色がゆっくりになる。
息づかいを忘れる。
思考がとんでもなく早く、クリアになる。
――このとき、刻哉は「自分はこのまま死ぬ」と恐ろしく冷静に受け止めていた。
不思議と怖くない。
それどころか、
迫るドラゴンの牙。
それに対して刻哉は、岩陰から出て、一歩前へ踏み込んだ。
ベルトに差したフォールティングナイフを取り出す。
左手で握り、構える。
視界はすでに、アダマントドラゴンの口腔でいっぱいになっていた。
逃走不可。死亡不可避。
ドラゴンの咬合力に耐えられるはずはない。耐えられるなら、そもそも最初から骨折などしていない。
たかが折りたたみナイフ一本で何ができる?
――一矢報いることはできる。
――ここで恐怖していたら、それすらもできない。
どこまでも冷静に、一秒の無駄なく、絶命のその瞬間まで、立ち向かう。
襲いかかる牙に、逆に自ら突っ込む。
頭のネジが吹っ飛んだバグ男でなければ、不可能だっただろう。
刻哉はこのとき、そんな吹っ飛んだ自分の性格を初めて好きになれた。
的を決める。
狙うは上顎の裏側。口蓋。その向こうにあるだろう、アダマントドラゴンの脳。
生まれて初めて味わうような、血湧き肉躍る感覚。身体の内側から、熱い衝動が溢れてくる。
不意に。
外光が届かないドラゴンの口の中で、薄く輝く光を見た。
左手。いや――フォールティングナイフが、光っている。
刻哉は直感した。刃を信じろと、このまま突き刺せと、ナイフが叫んでいる。
先端が、ドラゴンの口蓋に刺さる。
まるで水に浸けるように、一切の抵抗なく刃は根元までめり込んだ。
カッと一瞬だけ、ナイフが
光が収まると同時に、フォールティングナイフの刃が音を立てて砕けた。
刻哉はバランスを崩す。やたら渇いたドラゴンの舌の上に、膝を突く。
激しい息づかいが耳に入ってきた。刻哉自身の呼吸だった。
超集中状態が解けて、時間の感覚が戻ってきたのだ。
アダマントドラゴンの口の動きは、止まっている。
「――トキヤさん、早く出て!」
蝶の少女の声が聞こえた。
反射的に左右を確認。左側のかみ合わせが甘い。牙と牙の間に身体を滑り込ませる。
ずるずるとドラゴンの上顎が降りてきた。
アダマントドラゴンの口が完全に閉じきる前に、刻哉は外に脱出する。
よろめきながら振り返ると、ドラゴンの濁った目と視線がぶつかった。
――死んでいる。
巨大なドラゴンが、外傷も血の一滴も外に見せることなく、五体満足のまま骸として横たわっていた。
刻哉はそのまま、ごつごつした地面の上に仰向けになった。荒い呼吸を繰り返す。
左手に持ったフォールディングナイフを掲げる。
ナイフは、刃の部分が根元から折れていた。
刃渡り十㎝ほどの市販品が、あの巨大なドラゴンを
しかも、一撃で。
刻哉は荒い息とは別に、鼓動が高鳴るのを感じた。
あの極限状態。死ぬのは確実で、あとは遅いか早いか、一矢報いるかそうでないかの違いでしかなかった、あの一瞬。フォールティングナイフの放った輝きが、強烈な印象とともに刻哉の頭に刻まれていた。
あれが全部をひっくり返したのだ。
たった三秒で、自分のすべてがまるっと創り変わってしまったような、そんな気さえした。
「トキヤさん、大丈夫ですか」
蝶の少女が隣にひざまずく。細い手が刻哉の顔に伸び、右側ににじむ血を拭った。
刻哉は思った。
――知りたい。あの瞬間のことを。
――味わいたい。あの瞬間を、もう一度。
蝶の少女を見る。小さく小首を傾げる彼女に、たずねる。
「もう一度、このナイフを復活させたい。どうしたらいい?」
少女は目を
「開口一番がそれ、ですか。あなたはやっぱり、ヘンなひとです」
「教えてくれ」
「ええ。教えます。私の知っていること、すべてあなたに伝えたくなりました」
そこで初めて蝶の少女は、少しだけ微笑んだ。
「私の名前はフィステラ」
黄金色の蝶が、ひときわ鮮やかに、数多く舞い踊る。
「あなたに、希望を見いだした精霊です」