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第16話 指輪

 陽炎かげろうが揺れる点字ブロックに白杖が律動的な音を刻み明穂は歩みを進めた。その左手は大智の肘に添えられ2人は並んで歩いた。機械的な鳥のさえずりで横断歩道が赤信号になり大智は前屈みになって明穂の唇に口付けた。


「誰も見ていない?」

「見ていないよ」


 その傍を小学生のランドセルが筆箱の音を上下させて通り過ぎた。「ね、ちゅーしてたね」「してた、おじちゃんとおばちゃんちゅーしてた」明穂の頬は真っ赤になって大智の腕を引っ張った。


「いるじゃない!」

「良いじゃん、清く正しい性教育だよ」

「なに言ってるの!もう!」


 夏の盛り、吉高と明穂の離婚が成立した。吉高は白山麓はくさんろく白峰村しらみねむらに移住し大智は小立野こだつのの実家に戻った。


「よっしゃ、頑張って歩くぞ!」

「何処に行くの」

「県立美術館のケーキ屋!」

「カフェね」


「途中でバテたら公共交通機関な」

「タクシーね」


 油蝉あぶらぜみの鳴き声に首筋を汗が伝った。「よーーっしゃ着いたぞ!」大理石の薄暗い美術館は空調が程よく効いて生き返った。


「涼しい」

「文明の発展は素晴らしい」

「なに言ってるの」


 ル ミュゼ ドゥ アッシュ KANAZAWA は石川県立美術館を包み込む本多の森に店を構えるパティスリーカフェだ。能登出身のパティシエールが営む有名店、カフェはオープン直後で全面ガラス張りの窓際に座る事が出来た。


「静かだな」

「でも、少し人の気配がする」

「世間は夏休みなんだよ」

「そうなのね、さっきの子たちは終業式だったのかな」

「そうじゃねぇか、朝顔の鉢植え持ってたぞ」

「朝顔の鉢植え」


 明穂は窓の外の緑を無言で眺めた。明穂が小学3年生の終業式、小学6年生だった大智が明穂の朝顔の鉢植えを持ち、吉高が書道セットの鞄を持って家まで送ってくれた。


「明穂、抹茶好きだよな」

「あ、うん」

「えーーーと、よく聞けよ。西尾抹茶とやらの杏子のコンフィチュール、コンなんたらってなんだ。キャラメルクリーム、げ、甘そうだな」

「美味しそう」

「じゃあそれで良いか」

「うん」


 運ばれて来た抹茶のケーキとほうじ茶加賀棒茶の香がテーブルに立ち昇った。明穂はくんくんと匂いを嗅ぐと頬を綻ばせた。その可愛らしい仕草と面差しを、大智は片肘をテーブルに突いて穏やかな眼差しで見守った。

 明穂が銀のカトラリーを手にした所でそれは大智により制止された。


「なに、食べちゃ駄目なの」

「腹一杯になる前に胸一杯にさせてやるよ」

「またよく分からない事を言うわね」

「そのフォークを握った手を出してみなさい」


 明穂は左利きだった。


「あ、これ」

「黙れって」


 大智は明穂の手を取ったがそれは緊張で汗ばんでいる事が分かった。明穂の心臓も大智が言ったように脈打って跳ね回った。左手の薬指に冷たい物がまるのを感じた。明穂の唇が嬉しさに歪んだ。


「なに泣いてるんだよ」

「だって」

「約束しただろ、1.5ctカラット俺とお揃いなんだぜ」

「大智の指輪と?」


 大智は親指と人差し指で明穂の額を軽く弾いた。


「い、痛っ!」

「ばっか、ちげぇよ!弁護士バッジとお揃いだよ!」

「向日葵」

「探すの大変だったんだからな、ありがたく思え」

「ありがとう」

「だーかーら泣くなって!みんなが見るだろ!」


 明穂が指先で触れると確かにそれは放射線を描き中央にダイヤモンドが輝いていた。大智のプロポーズは輪郭しか見えない明穂の世界でも眩く美しく光った。


「指輪のサイズはいつ測ったの?」

「吉高に聞いた」

「ひっ、酷っ!」

「吉高も同じ事言ってたな」

「デリカシーはないの?容赦無いのね」

「明穂を泣かしたんだ、当然の報いだ。さぁ、食おうぜ」


 その日食べたオペラ テヴェールはほろ苦かった。明穂は優しかった日の吉高の笑顔を思い出し目頭が熱くなった。


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