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第14話 有罪宣告 仙石吉高

有罪宣言 仙石吉高


 吉高が出勤しようとネクタイを絞めているとインターフォンが鳴った。モニターを覗き込むと見知らぬ顔がこちらを凝視していた。その目力に一瞬怯んだが意を決して通話ボタンを押した。


「ど、どちらさまでしょうか?」

「私、東京の佐倉法律事務所から参りました辰巳、と申します」

「とう、東京」

「仙石さまの弟、大智さんの同僚です」


 身内の知り合いだと胸を撫で下ろし玄関の扉を開け後悔した。上背があり威圧感が半端なかった。


「今日はどの様なご用件でしょうか、私、これから出勤しなければならないのですが」

「この件につきましてお心当たりはございますか」


 目の前に押し付けられたのは寝室での淫らな姿の画像だった。


「こ、これは如何して」

「奥さまのご依頼でお伺い致しました。ご一緒願えますか」

「ど、何処へ」

「ご実家です、

「私、学会が」

「代わりに仙石、あぁ面倒ですね。大智が出席していますからご安心下さい」

「ふ、ふざけるな!」


 威勢よく怒鳴ったつもりが語尾が上擦った。喉が渇き頭を捻られている様な感覚に陥った。紗央里との事は上手く誤魔化していた、いや、弱視の明穂が気付く筈など無かった。しかもこんな細工が出来る筈はない。


(ーーーー大智か!)


 この辰巳という大男を連れて来たのも、明穂をそそのかしたのも大智、怒りが込み上げたがそれは一瞬で冷や汗に変わった。


「が、学会には学会には大智が行っていると仰いましたか?」

「はい、上手くプレゼンテーションが出来ると良いのですが」

「上手く」

「はい、上手く」


 家の前にはタクシーが横付けされ後部座席のドアが軽い音で開いた。


「どうぞお乗り下さい。掛けた方が宜しいかと思います」


 吉高の顔色が変わり鍵を持つ手が震えた。


(まさか、カルテ保管庫!)


 先日、存分に楽しんだ後、カルテ保管庫の扉を施錠し忘れていた事に気付き紗央里と「鍵を掛けた」「掛けない」で一悶着があった。


(まさか、そんな)


 吉高は辰巳に促されるままタクシーの後部座席に乗り込んだ。タクシーの後部座席に腰掛けた吉高の膝は落ち着かなく震えその動きを止めようと両手で必死に押さえたが今度はかかとが忙しなく上下し始めた。


「お客さん、顔色が悪いですが大丈夫ですか」

「は、はい」

「車、停めましょうか」

「大丈夫です」

「はぁ」


 酷く具合が悪そうな吉高の様子にルームミラー越しのタクシー乗務員が声を掛けた。乗客の具合が悪くなり車内で嘔吐されようものならそこで運行停止、その日の営業が滞るのでったまったものではない。


「大丈夫、です」

「はぁ」

「運転手さん、その和菓子屋の角を左に曲がって下さい」

「はい」


 辰巳は間違う事なく仙石家への道順を的確に指示した。見慣れた景色がフロントガラスに広がり吉高は気分が悪くなった。


「う、運転手さん停めて下さい!」

「は、はい!」


 不快感に耐えかねた吉高は叫んだ。タクシーは急停車し身体が前後した。


「うげっつ」


 後部座席から飛び出した吉高は側溝に前屈みになり嘔吐した。込み上がる胃液に喉が焼き付き胃が咽頭から飛び出しそうだった。


「うげっつ、うげっつ!」


 その姿を冷ややかな目で見下ろした辰巳は運転手に2,000円手渡すと「釣りは要らない、領収証だけ下さい」とタクシーから降りた。


(大概、不倫する男なんてこの程度のものだ)


 陽炎かげろうが揺れる日差しに油蝉あぶらぜみが賑やかしい。辰巳は和菓子屋まで戻ると自動販売機で水を買いアスファルトの道路にしゃがみ込んだ吉高に手渡した。


「気分が良くなったら行きましょう、ご実家はもうすぐですよ」


 真っ青な横顔は項垂れた。


(僕のプレゼンテーションが始まる頃だ)


 吉高は腕時計の針に目を落としながら絶望感に襲われた。不倫の証拠が明からさまになった今、この頃合いで大智が医学発表会の壇上でなにをプレゼンテーションをするかなど想像に容易たやすかった。


(既読にならない)


 紗央里に送信した おはよう♡ のメッセージも既読にならない。多分に紗央里の自宅にも弁護士が訪ねたのだろう。吉高は辰巳の目を盗んで紗央里とのLINEトーク画面を全て削除した。


「仙石さま、そろそろお時間です」

「は、はい」


 明穂の実家が近付いて来た。白い壁、通りに面した窓ガラスは閉め切られ人の気配がない。とは明穂や義父母も集まっているのかもしれない。その不安げな表情を察した辰巳は悪戯心でその背中を奈落の底寸前まで突き落とした。


「ご心配の様ですね」

「なにがですか」

「お相手の方のご自宅には島崎という弁護士が伺っております」


(ーーーやっぱり)


「佐藤教授はご立腹の様でしたよ」

「え、きょう」

「ご存知なかったのですか、佐藤紗央里さまは佐藤一郎教授のお嬢さまですよ」

「佐藤教授」

「おや、ご存知なかった?」

「そんな事は一言も」


 吉高の口元は歪み歯の噛み合わせがガタガタと音を立てた。


「たったひとりのお嬢さまだとか、さぞ可愛がっておられた事でしょうね」

「まさか、そんな」


 大智のプレゼンテーションの内容が如何かを心配する以前に、自身は犯してはならない禁忌に足を踏み入れていた。大学教授のひとり娘と不倫、大学病院での地位も名誉もその存在すら風前の灯だ。


「さぁ、ご自身で開けて下さい」

「は、はい」


 吉高は久しぶりに訪れた実家の前に立ち、その引き戸に指を掛けた。


「ただいま帰りました」


 家の中に人の息遣いはあるが誰も迎えに出て来る気配が無い。吉高が玄関の三和土たたきで静かに革靴を脱ぐと奥の座敷で父親の厳しい声色がした。


「吉高、おかえり」

「あ、ただいま」

「ちょっとこっちに来なさい」

「はい」


 動悸が止まらない、口の中はカラカラに乾くが脇の下と足裏には汗が滲み出た。座敷の襖を開けると冷房のひんやりとした風が首筋を撫で、足元には何枚もの写真が百人一首の様に並べられていた。


「おはようございます」

「おはよう」


 上座には着物を着た父親が正座で吉高を迎え入れた。その向かって左側には母親と弁護士の辰巳が着座し、右側には義父と義母、明穂が暗い表情で畳に目線を落としていた。


「ーーーあ、あの」

「座りなさい」

「はい」


 血の気が引いた吉高は力無く下座に座った。


「吉高、おまえが何故ここに呼ばれたのかは分かるな?」

「は、はい」


 父親は一枚の写真を母親に持たせた。母親はそれを凝視すると辰巳へと手渡した。辰巳はその写真を吉高の前に置いた。


「その女は誰だ」

「あの」

「誰だと聞いているんだ!」

「佐藤、佐藤紗央里、さんです」

「大学病院の教授の娘だそうだな」

「それは先ほどその方から聞いて初めて知りました」


 吉高は辰巳を見て項垂れた。


「そんな事も知らずに、このたわけが!」


 その写真には紗央里を家に招き入れる吉高の笑顔が写っていた。吉高はいつの間にこんな画像が撮られたのかと目を凝らして見ると、車庫に停まっているBMWのバックミラーにカメラを構える隣人の姿が映っていた。


(ーーーくそっ!)


 父親は眉間に皺を寄せたその瞬間を見逃さなかった。


「ご近所さんはこの女が頻繁に家に出入りしている事を知っていたぞ!」

「ーーーえ」

「おまえはそんな事にも気付かず回覧板を回していたそうじゃないか!恥ずかしく無いのか!」

「そんな」

「こんな堂々と明るいうちから女を家に連れ込んで!そんな事も分からなかったのか!」

「これは、これは佐藤さんが資格を取る為に分からない事があるから!だから家に来て貰っただけで!」


 辰巳が背後から段ボール箱を取り出し吉高の前に置いた。それは見覚えのある点滴パックの段ボール箱だった。


「中を見てみろ」

「は、はい」


 蓋を開け、恐る恐る手を入れると黒い毛の塊が指先に触れた。取り出して見るとその腹はカッターナイフで切り裂かれ、小粒の発泡ビーズがざらざらと零れ落ちた。


「ひっ!」


 すると玄関先で「失礼します!」と声がして額に汗を滲ませ顔を真っ赤にした島崎が座敷に転がり込んだ。「ま。間に合ったか!」「丁度今開けた所だ」島崎はポケットからジップロックに入れた黒いカードを取り出した。


「吉高、読んでみろ」

「は、はい」

「早く!」

「ーーーー


 吉高の息が止まった。


「ただの看護師がこんな物を送り付けるのか!」

「それは悪戯で」


「しかも明穂さんの目の事も、名前も知っていたそうじゃないか!」

「それは」

「おまえが話したんだろう!」

「それは話の流れで」


「それに!さお、佐藤さんがこの段ボール箱を送った証拠は!」

「証拠ならございます」


 辰巳は監視カメラに写った宅配便業者に扮した紗央里の姿、レンタカーとそのナンバープレート、借り主が紗央里である事を証明する免許証や書類のコピーを吉高の目の前に並べた。


「そ、そんな」

「明穂さんに嫌がらせをする程、おまえと深い仲だったんじゃ無いのか!」

「こんな事をしたなんて聞いていません!」

「言うわけが無いだろうが!」


 父親は畳を激しく叩き写真がふわりと舞い上がった。


「それから、これを見ろ!」

「これは?」


 その写真には青空の中に醜く歪んだ表情の紗央里が写っていた。セルフタイマーでの自撮り写真にしては不自然だった。


「これは、なんですか」

「明穂さんがデジタルカメラを持ち歩いていた事は知っているな」


(あ、あぁ、そんな物もあったな)


 吉高は明穂が撮っていたデジタルカメラの画像を見た事など無い。興味関心など無かった。そもそも大智が明穂に贈った忌々しいデジタルカメラ等捨ててしまいたい衝動に駆られた事さえある。


「ーーーはい」

「これは明穂さんが公園で転倒する瞬間に撮った物だ」

「どういう意味ですか」

「紗央里という女が明穂さんを突き飛ばしたんだよ」

「まさか!」


 吉高は身を乗り出した。


「まさかも何も、その女の腹の中には赤ん坊が居るそうじゃないか!」

「その事をーーなんで!」

「明穂さんが疎ましかったのか!」

「そんな事は一度も!」

「妊娠させてどうするつもりなんだ!」

「それは佐藤さんが勝手に!」

「黙れ!」


 これまで聞いた事の無い父親の怒号に吉高は飛び上がった。


「明穂さんになにか言う事は無いのか」


 ここまで明け透けになったにも関わらず吉高は膝に視線を落としたまま微動だにしなかった。呆れ顔でため息を吐いた父親は前に進み出ろと手招きをした。そこに並んでいた写真は結合部分まで鮮明に写ったものや自宅寝室での情事、大学病院カルテ保管庫での淫らな行為のスクリーンショット画面だった。


(こんな物、いつの間に)


 写真を2枚、3枚と手に取り青褪あおざめていると義父である明穂の父親がその顔を憐れむような目で覗き込んだ。


「吉高くん、明穂が、明穂がなにかしたのかな」

「ーーーーー」

「明穂に不手際があったのかな」


 吉高の指先は震え、不倫が発覚した事が信じられないといった表情で写真を凝視していた。明穂の母親はハンカチで涙を拭い明穂の目はうつろだった。


「明穂がなにかしたのかな」

「いえ、なにも」


 すると吉高の母親が中腰で立ち上がると握り拳を作り、涙を流しながらその背中を激しく叩き始めた。


「この、この恩知らず!」

「か、母さん」

「明穂ちゃんに謝りなさい!田辺さんに謝り、謝りなさい!」

「母さん、痛っ!」

「あんたなんか死ねば良い!」

「痛い!痛いよ、痛いっ!」

「あんたなんか息子でもなんでもないわ!」


「痛えっ!痛ぇんだよ、ババア!」


 吉高の本性が露呈した瞬間、激昂した父親は立ち上がると足を振り上げ吉高の肩を蹴り飛ばした。その身体は背後に吹き飛び、ハラハラと舞い落ちる写真の中で明穂の目の前に転がった。


「吉高さん、私の事、愛していた?」

「明穂」

「愛していた?」


 輪郭しか見えない吉高に語り掛けると明穂の視界が熱くもやが掛かった。こんな時さえなにも見えない、明穂はこの目を呪った。


「あ、明穂」

「私、駄目な奥さんだった?」


 吉高が何処か悲しげな表情で半身を起こしたその時、玄関の引き戸が勢い良く開いた。革靴を脱ぐ事すらもどかしそうに廊下に上がると座敷へと踏み込んだ大智は吉高の襟元を捻り上げた。


「だ、大智!大智、なにしてるの!」

「吉高、てめぇなにしてんだよ!」

「だ、だい」

「明穂を幸せにするんじゃ無かったのかよ!」


 大智は吉高の腹に馬乗りになると右の拳を振りかぶった。


「大智、駄目!」


 そこで大智の手首を瀬尾が掴んだ。


「おおーっと、落ち着け。どうどう」

「瀬尾!離せよ!」

「その弁護士バッジが泣くからねぇ、まぁ落ち着けって」

「くそっ!」


 瀬尾の手を振り解き髪の毛を掻きむしったその姿は吉高に瓜二つで母親はあんぐりと口を開けた。


「あなた、どうしたの」

「イメチェン、ちょっと外科医になって来た」

「外科、医?」

「そ」


 吉高の両目は見開き顔色を変えて大智に掴み掛かった。


「大智!おまえなにをした!」

「なにも、プレゼンテーションとやらの体験実習だよ」

「なんのプレ!」


 畳に胡座あぐらをかいた瀬尾はプレゼンテーションのを吉高に手渡した。吉高は瀬尾を睨み付けると「名誉毀損で訴えてやる!」と声を大にした。すると瀬尾は鼻先で笑うと「不倫、不貞行為も立派な犯罪ですけど、なにか?」と言い放った。


「仙石先生、職場での不倫行為って懲戒処分の対象になるって知ってた?」

「懲戒処分」

「会社施設管理権の侵害、職務専念義務違反」

「義務違反」

「そう、だから医局長さんに懲戒委員会を開いて貰いたいなぁって依頼しました」

「なにを勝手に!」

「離れ小島は石川県には無いかぁ、奥能登辺りかな。自然豊かで良いんじゃない?」


 髪を掻き上げた大智は吉高を睨みつけた。


「俺が明穂を幸せにするからさっさと離婚しろ」

「り、離婚?」

「おまえ、まさか離婚しないとか言い出したら今度こそ殴る」


 島崎が電卓を取り出し「佐藤紗央里の慰謝料300万円、吉高氏は支払い能力もありそうなので400万円一括でどうですかね」と言った。


「明穂への精神的苦痛を与えた慰謝料400万円、資産は折半な」

「400万円」

「家庭裁判所の世話にはなりたくねぇだろ」


 そこで明穂の母親が銀行通帳を吉高に開いて見せた。それを見た吉高は顔を引き攣らせ口篭った。


「これは明穂が少しづつ貯めたお金なの、返して下さい」

「そ、それは」

「明穂はかもしれないけれど1人の人間なの。お医者さまなら分かって頂けるわよね、好き勝手して良い訳じゃないのよ」

「申し訳ありません」

「謝る相手、違うと思いませんか?」


 息子の新たな失態に狼狽うろたえた仙石夫婦は吉高の頭を押さえ付けて土下座をし「申し訳ありませんでした!申し訳ありませんでした!」と明穂に向かって畳に額を擦り付けた。


「明穂、おじさん、おばさん、この度は申し訳ありませんでした」


 その隣で襟を正した大智が深々と頭を下げた。


「良いのよ、大智くんには善くしてもらったから」

「そういう訳にはいきません」

「ありがとう」

「申し訳ございませんでした」

「大智」

「ごめんな、明穂」






 両家で建てた吉高と明穂の家は売却する事になった。当初、財産分与は折半となっていたが仙石家はその権利を放棄した。


「家庭裁判所の世話にもならずスピード解決」

「お疲れさん、今度は能登観光な」

「次は廻らない寿司を奢れよ」


 佐藤家、仙石家から慰謝料請求額に対し異議申し立てが無く公証役場での公正証書の取り交わしで全てが終わった。吉高には400万円の慰謝料支払いと無断で引き出した預貯金180万円の返還が求められた。


「くそ、懲戒解雇じゃねぇのかよ!」


 吉高は懲戒処分として減給と出勤停止、紗央里は自主退職、佐藤教授には始末書の提出が求められた。


「妊娠はしていませんでした」

「そうですか」


 1ヶ月後、佐藤教授が夫人を連れ立ち田辺家と仙石家に謝罪と報告に訪れた。

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