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第7話 逢瀬

 吉高は「行って来るよ」と車のエンジンをかけた。手摺りに掴まりながら「気を付けてね」と手を振る妻、吉高は一泊二日で京都の大学病院で開催される学会に参加すると偽の印刷物まで用意した。

 そして自宅から然程さほど遠くない兼六園下のバス停留所で恋人と待ち合わせ、金沢の奥座敷と呼ばれる湯涌温泉へと向かう。


「先生、おはようございます」

「おはよう」


 紗央里は悪びれた様子も無く黒のBMWに乗り込んだ。助手席の不倫相手を苦々しく見た吉高はやや棘の有る声でその名前を呼んだ。


「紗央里、こんな人の多い停留所を選ばなくても良いだろう」

「だって、家から近いんだもの」


 紗央里としてはいっその事、医局の同僚にと思っていた。それは仙石医師の不倫が公になれば離婚し自分と再婚するだろうという浅はかな考えだった。


「まぁ、良いけど」

「あ、ここ、先生のお家がある所ですよね」

「近いな」


 吉高の運転するBMWはクリーニング店の前を通り過ぎ、職場である大学病院を横目に湯涌町へと向かった。紗央里は誇らしげにそれを見遣った。なにも知らないあの女は家で夫の帰りを待ち、同僚たちはナースコールに右往左往している。青空が眩しく心は弾んだ。


 紗央里がBMWに乗り込むと柑橘系のオードトワレの香が舞い上がった。シャネルのチャンスオーヴィーヴ、紗央里が香水を買って欲しいと駄々をねたので鼻の利く明穂に不倫が発覚しない様に同じ銘柄を選んだ。





 普段は病棟の薄暗いカルテ保管庫で済ませる情事、有給休暇を取得した2人は車での移動時間も惜しく近場の温泉宿を選んだ。


「あ、せんせ」


 女将に予め布団を敷いておいてくれと頼んだ吉高は、部屋に通されるなり紗央里のワンピースを脱がせて畳へと倒れ込んだ。


「あぁ」


 熱い吐息が漏れる。


「好きだ、好きだ紗央里」


 その言葉が耳に届いているのかいないのか、それすらも定かではない紗央里は喘ぎながら身悶えた。


ぐちゅ


 インナーを脱がせると紗央里は物欲しそうな目で吉高を仰ぎ見た。


「あぁ」


 吉高はネクタイを外す事も無く、ワイシャツを着たまま、紗央里の中へと押し入った。


「やだ、先生」

「病室でやってるみたいだろ」

「あっ」


 敷布団のシーツが上下に乱れる。


「私だけ脱いじゃって、先生、ずるい」

「興奮する」

「えっち」


 吉高は紗央里を寝転がせると腰を持ち上げ、うつ伏せにした。


「嫌らしいのは紗央里だよ、もうこんなになってる」


 紗央里は雌の呻き声を上げて長い髪の毛を振り乱した。


「あ、あ」

「ほら、ほら、紗央里!ほら!」

「ああ!」


 紗央里が果てた事を確認した吉高はありとあらゆる体位を堪能した。背後から抱え上げ、紗央里の身体を上下させるとより深い部分へ自身が埋もれるのを感じ、尾骶骨びていこつから脳髄に痺れが走った。


「ーーーーー!」


 そこで自身を紗央里から自身を抜き取って突き放した。


「やだ、痛い!」

「ふぅ、やばかった」


 紗央里の背中に飛び散る白濁した体液。吉高は快楽に酔いしれ、その後も避妊具を着けずに情事に耽った。




 京都の大学病院の学会に一泊二日で参加したという吉高の顔は魂が抜けた様に惚けていた。しかも明穂が使っているオードトワレは微香でこんなに強い匂いではない。


(頭が痛くなりそう)


 それに吉高の体臭がいつもと違う。スーツからは畳のい草の匂いがした。


(紗央里さんと一緒に居たのね)


 つい、吉高と紗央里の情事を想像し悪寒が走った。土産だと手渡された生八つ橋は事前に通信販売で取り寄せた物だろう。「ありがとう、気を遣わなくて良いのに」そう微笑みを浮かべ受け取ったが今すぐにでもゴミ箱に捨てたい衝動に駆られた。


(これは明日のごみ収集に出すしかないわね)


 吉高は「教授の話が長くて疲れたよ」と在りもしない学会の愚痴を溢しながら風呂場へと入って行った。吉高が妻と同じ銘柄のオードトワレを不倫相手に買い与えているとすればボディーソープやシャンプーも自分の家と同じ銘柄の物を紗央里の家に常備している可能性があった。


(気持ち悪い)


 吉高のもうひとつの顔、もうひとつの家が存在する事に吐き気がした。


(美味しくない)


 紗央里にうつつを抜かし誠意の欠片も無い顔と向き合って夕飯を口にしたがまるで砂を噛んでいる様で味がしなかった。


「おやすみ」

「おやすみなさい」


 新婚当初は別々のベッドで眠る事に寂しさを感じたがこの不協和音にあってはツインベッドで良かったと心から安堵した。然し乍ら安眠は訪れず霞がかった朝を迎えた。


「どうしたの、顔色が悪いよ」

「あまり眠れなくて」

「明穂は家の中に引き篭もっているから運動不足なんじゃない?」

「ーーーーえ」

「お義母さんの家に遊びに行ったら?」


 呆れた。


「そうね、そうしようかな」

「今晩、泊まってくれば?」

「泊まるなんてそんな急に、お母さんも困るわ」

「そうしなよ気分転換にもなるよ」

「そうかな」

「うん」


 吉高は紺色のネクタイを締めながら機嫌良く出勤して行った。確かにこのままでは息が詰まって憎悪の沼で溺れてしまいそうだった。

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