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第6話 帰国

 紗央里から届いた気味の悪い段ボール箱は物置の奥に仕舞ったままだ。明穂はそれをごみ収集ステーションに持って行こうかとも考えたが玄関の扉を開けた途端、紗央里が待ち構えて居るのではないかと思い立ちすくんだ。


(それに、これも不倫の証拠になる筈)


 然し乍ら紗央里がこれを持って来たという確固とした証拠は何処にも無く、ただの無作為な悪戯だと言われればそうかもしれない。しかもその顔も薄ぼんやりとしか見えておらず無表情で特徴が掴めなかった。


(怖い)


 路地2本先の表通りを通り過ぎる車の気配が昨日の恐怖を思い起こさせた。明穂は玄関扉の施錠を確認するとチェーンを掛けリビングのカーテンを閉めて階段を上がった。


(ーーーどうして)


 明穂は寝室のベッドに寄り掛かり天井を見つめた。


(私のなにがいけなかったの?)


 不倫をした吉高も悪いが自身にも至らなかった点があったのでは無いかと明穂は胸を痛めた。


(ーーーやっぱり目が不自由だから?)


 この2年間吉高は優しい夫だったが、たまの休日に旅行に出掛けても反応が薄い明穂に辟易し、日常生活でも気遣ってばかりで息苦しかったのだろうか。


(でもそんな事、最初から分かっていたんじゃないの?)


 然し乍ら吉高には弱視の明穂と結婚する覚悟など端から無く、ただ大智に負けたくないその一心で求婚した。そんな吉高の軽率な行動を明穂が知る由もなかった。

 そんな時だった。往来おうらいでタクシーが停まった音がした。古き良き時代から運行しているタクシーは液化石油ガスLPGを燃料とし、昨今の電気自動車のエンジン音とは全く異なる。明穂の聴覚はそれすらも聞き分ける事が出来た。


パタン バタン


 案の定、軽い音で扉が開き、重い音で扉が閉まった。吉高はBMWで通勤し、度々訪れる母親は軽自動車を使う。今日、タクシーで乗り付ける客に心当たりは無かった。


(誰?)


 その革靴の音は隣家ではなく一直線に明穂の自宅玄関へと向かって来た。


ピンポーン


ピンポーン


 それは先の尖った男物の革靴の音で間違い無かった。


ピンポーン


ピンポーン


 明穂は手摺りに身体を預けながらリビングへと降り立った。


ピンポンピンポンピンポン


 痺れを切らしたインターフォンは連打され、明穂は恐る恐るモニターのボタンを押した。そこには見知らぬ人物が立っていた。

 モニターには髪を後ろに撫で付け眼鏡のフレームを光らせた男性が横を向いていた。その神経質そうな男性は細身で濃灰のスーツジャケットらしき物を羽織り深紅のネクタイを締めていた。それにしてもセールスマンがタクシーで乗り付けるなど聞いた事が無い。


「どちら様でしょうか」

「どちらもこちらもねーよ!早く開けろよ!」


 隣近所に響く声。


「大智?」

「おう、大智様のお帰りだ!早く開けろって!」

「大智!」


 吉高と似ているがややしゃがれた声がインターフォンのマイクに唾を飛ばした。その人物は帰りを待ち侘びた仙石大智だった。明穂は慌てた手付きでチェーンを外すと鍵を回した。ドアノブを下ろす間も無くその扉は開き、なんの躊躇ためらいも無く華奢な明穂の身体を抱き締めた。


「ちょ、ちょっと!」

「ちょっともなんもねぇよ!3年振りの再会に遠慮はいらねぇよ!」

「わ、私、もう吉高の奥さんなのよ!」


 大智は後ろ手で扉を閉めると今にも口付けしそうな勢いで顔を近付けた。明穂はその唇を両手で塞ぎそれを拒んだ。


「チッ、減るもんでもねぇし」

「減るわよ!」


 大智は「ちわーっす」と軽い挨拶で革靴を脱ぎ散らかし家の中を見回した。明穂が革靴を揃えていると便所は何処だと尋ねその扉を閉めた。


(え、帰りは明日じゃなかった?)


 余りにも突然の出来事で唖然とした明穂だったが我に帰り玄関扉を施錠した。

 珈琲と紅茶どちらが良いかと尋ねると大智は炭酸飲料が欲しいと言った。やはりニューヨークでは不摂生をしハンバーガーショップでコーラの飲み放題でもしていたのかと思ったが肌艶も良く全体的に引き締まった身体付きをしていた。


(吉高さんって太り気味だったのね)


 こうなると日頃見慣れていた吉高が中年太りの域に達していた事を思い知らされた。


「ねぇ、帰国は明日じゃなかったの?」

「帰国ぅ?俺、昨日まで東京に住んでいたんだぜ」

「ええっ!」


 大智は眉間に皺を寄せた。


「返事もねぇし電話もねぇしおかしいと思ってたんだよな」

「おかしい?」

「どうせ吉高がおまえへの手紙、隠したんだろ」

「そ、それが」

「やっぱり、あいつのする事はいちいち細けぇんだよ」


 神経質そうな眼鏡を外すと3年前の面影があった。その面立ちを見ていると逆に大智に凝視され思わず顔が赤らんだ。


「おまえ」

「なに」

「老けたな」

「酷っ!」


 右の眉を吊り上げて悪戯な笑みを浮かべる大智はあの頃のままだ。


「俺はどうよ」

「大智は、変わった気がする。雰囲気が大人っぽくなった」

「そりゃあ28歳にもなりゃ落ち着くわ」

「それに、スーツなんて珍しい。いつもTシャツにジーンズだったのに」

「そりゃそうだ」


 大智は明穂の手を握った。


「や、ちょっと」

「良いから黙って静かにしろ」

「な、なに」


 大智の指先は明穂の指先を持ち上げスーツの肩に置いた。


「そのまま降ろしてみろ」

「降ろす?」

「スーツの襟、触ってみ?」

「こう?」


 上質なスーツの襟元には金色に輝く物があった。


「ボタン?」

「残念、ハズレ」

「ピンバッジ?なんだかゴツゴツしてるわ」


 凹凸の細かな線が放射を描いている。


「そ、向日葵ひまわりのバッジ」

「これ、向日葵なのね」

記章きしょうってんだ」


 その小さなバッジからはなんとも言えない重みを感じた。


「記章というのね」

「そ、弁護士記章、弁護士バッジ」

「弁護士!弁護士のバッジ!」

「そ」


明穂は目を見開いた。


「本物なの!」

「本物だよ!」


 大智はニューヨークで算数ドリルではなく弁護士事務所の雑務をしながら秘書試験を受けた。弁護士秘書から弁護士をサポートするパラリーガルになるには並大抵の苦労ではなかった。


「英語は苦手だったじゃない」

「一緒に暮らしてりゃ覚えるさ」

「誰と」


 大智は目を逸らした。やはり女性の部屋に転がり込んでいたのだろう。


「ふーん」


 そしてアメリカではなく日本で弁護士資格を取得し半年前に日本弁護士連合会に登録した。


「そ、それでスーツに眼鏡」

「かっこいいだろ」

「別人みたい」


 明穂の手を握った大智は自分の頬に手のひらを付けその窪みに口付けた。


「ちょっ」

「言ったろ、おまえを奪いに来るって」

「そんな事できる訳ないでしょ」

「吉高と離婚させりゃ良いじゃん」

「り、離婚」


 相変わらず突拍子のない事を言い出すものだと呆れたが、不意に物置の中の段ボール箱を思い出した。


「明穂、どうした顔色が悪い」

「大智」


 明穂は唾を飲み込んだ。


「吉高さんに彼女がいるみたいなの、助けて」

「まさか吉高が」

「名前を呼んだの」


 品行方正な兄に限ってそんな事は無いと大智には俄かに信じられない告白だった。


「紗央里って呼んだの」

「まさか」

「呼んだの」


 大智は暫く考え込んだが「あっ!」と手を叩いた。


「なに、どうしたの」

「吉高とその女から慰謝料がっぽり頂いて新婚旅行に行こうぜ!」

「誰と誰が」

「おまえと俺に決まってるじゃん」


 気不味い雰囲気に耐えかねた大智は「新婚旅行に行こう」とおどけて見せたが苦笑いの明穂の眉毛は情けなく垂れ、薄い唇が歪み始めた。堪えようのない感情が目頭を熱くし、頬を一筋の涙が伝った。


「明穂、大丈夫か」

「だいじょ、うぶ」

「大丈夫じゃないだろう」


 大智の目の前で涙を流している女性は幼い頃の明穂となんら変わりは無かった。それは何処に行くにも大智と吉高の後を付いて来た小学生の明穂であり、中学校に上がった気恥ずかしさから少しばかり距離を感じた明穂でもあった。そして熱い口付けを交わして恋人となった明穂。


「ーーー明穂」


 大智は小松空港のターミナルで「行かないで!」とすがり付いた明穂の腕を振り払った3年前を後悔した。大智は吉高に比べなんの取り柄も無い自身を奮い立たせる為に渡航したが当初は当て所も無くヨーロッパを転々とした。そんな折、吉高が医師免許を取得したと知り弁護士になる事を決意した。


(こんな顔をさせる為に俺は明穂から離れたのか?)

「ーーー大智、ごめん」

(いや、そうじゃねぇだろ!)

「なにが」

「泣いたりしてごめん」

「なに言ってんだよ!」


 大智は明穂を抱き締めた。その瞬間、明穂は嗚咽を漏らしスーツの背中にしがみ付いた。


「明穂、辛かったな」

「ゔ、ゔん」

「我慢したんだな」

「ゔん」

「泣いて良いんだぞ、泣け」

「ゔ、ゔゔゔ」

「泣けよ、俺が居るから!もう大丈夫だから!」

「ゔああぁぁあん」

「もっと泣け!」


 大智は耳をつんざく明穂の慟哭どうこくを全身で受け止め強くきつく抱き締めた。明穂はこれまでの苦しみや悔しさを大智に預けて泣き続けた。

 時計の針がどれ位の時間を刻んだろうか、抱き締めあった2人に日差しが降り注いだ。気が付くと明穂の右手が忙しなく動きなにかを探していた。


「これか?」

「あ、それ、見ないで。あっち向いてて」


 明穂は手渡されたティッシュの箱を抱えると思い切り鼻水をかんでゴミ箱に投げ入れた。それはあっという間に山盛りになり明穂の右頬には弁護士バッジの痕が付いた。


「すんげぇ、びしょ濡れ」

「ご、ごめん。クリーニング代」

「良いよそんなもん」


 明穂はテーブルの汗をかいたグラスに目を遣り「炭酸が抜けちゃったね、取り替えるよ」と立ち上がろうとした。大智はその手首を握り動きを止めると床に座らせた。


「ど、どうしたの」

「明穂」

「うん」


 大智は大きく息を吸った。


「俺と結婚する気はあるか?」

「なに、突然。そんな事出来ーーる」

「吉高と続けたいのか?」

「吉高さんと」

「吉高ともう一度やり直すつもりなのか?」


 明穂の心の中で離婚のふた文字は決まっていたが、今すぐ此処で頷く事ははばかれた。


「離婚しようか如何か悩んでる」

「迷ってんのか」

「ーーーーーー」

「じゃあ、決まったらおばさんに頼んで此処に連絡して」


 大智は名刺を取り出すとテーブルの上に置いた。



佐倉法律事務所 弁護士 仙石 大智



「これはーーー名刺?」

「そ」

「本当に弁護士さんなのね」

「それまだ言うのかよ」

「だって、校舎裏で煙草吸ってたって」

「あーーー若気の至り、それで格好良いと思ってたんだよ」

「だっさ」

「だせぇよな」


 お互いに顔を見合わせて失笑した。明穂が心から笑ったのは何ヵ月振りだろうか、新鮮な空気を吸い込んだ様な気がした。


「じゃあ俺行くわ」

「もう行っちゃうの?」

実家いえ行く前におまえの顔、見に来たから」

「そうなんだ」

「おう、吉高の居ない時間に来て正解だったな」

「ーーーーあ、タクシーは」

「表通りにでりやバンバン走ってるだろ」


 明穂は時間が止まれば良いと思った。


「なに、寂しそうな顔すんなよグラッと来るだろ」

「グラッ?」

「おまえの事抱きしめてキスのひとつもしたいんだよ」

「ばっつ、馬鹿」

「馬鹿じゃねぇよ、離婚届提出したら速攻チュー♡な」

「ーーーーー」

「じゃあな」


 革靴の音が遠ざかり、明穂はその背中が四つ角を曲がるまで見送った。


(大智と、結婚する)


 兄の吉高と離婚して弟の大智と結婚する。仙石の義父母は如何思うだろうか。そして実家の母親は呆れ顔をし、父親は腰を抜かすに違い無かった。


(でも、幸せになりたい)


 明穂は大智の名刺をリビングチェストの引き出しに片付けた。


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