翌日、ユリエルはどうにもやる気が出なかった。何も手につかない。それを周囲の者は心配した。その結果、この日は休みとなったのだ。
だが正直、休みというのは余計に考えてしまって辛かった。仕事をしている方が気がまぎれるというのに。
部屋の中にいても辛いばかりだと、ユリエルは軽い装備で周囲の森に出た。自然の多い場所を少し散策すれば気分転換にはなるだろうと思ったのだ。
その足は自然と、昨日エトワールに出会った場所へと向かっていた。
考えるのは昨日の事。互いに装備を付けて、剣を持っていた。そして、言葉はあまりに少なかった。それでも戸惑っているのは分かった。互いに戸惑って、そして言葉と時間は足りなかった。
できるならばもう一度、彼に会いたい。
そこから更に奥へと向かうと、視界が開けてきた。そして目の前に青い湖が見えだした。聖域の中にこんな場所があったとは知らなかった。清々しい風が吹き抜けていく。苦しいものや悲しいものを撫でていくように。
そうして辺りを見回すと、そこにもう一つの影があるのに気づいた。それは黒い髪に、凛々しい顔立ちの……。
「!」
見間違えるはずがない。肌を合わせたほどに彼に惹かれたのだ。再会を願ってやまなかったのだ。そんな人を、たとえ遠目でも間違えるはずがない。
逃げなければいけない。そう、王であるユリエルが訴える。話をしたいと、心が願う。その狭間で体は迷って背を向けたまま動けなくなった。
決断なんてできない。できるはずがない。こんなにも心が温かくなるのに。顔が見たいと願うのに。振り切れば息ができなくなるほどに苦しいと分かっているのに。
それでもようやく、足が一歩前に出た。静かに離れれば気づかれないままいられる。交わってはいけない運命だ。これ以上顔を合わせれば、心に逆らえなくなる。
「待ってくれ!」
後ろからかけられた声が、とても近かった。伸びた腕に抱き寄せられる。その腕は温かくて、逞しくて、逆らえない。抱き寄せられる体が心地よくて、縋りたくてたまらなかった。
「待ってくれ、リューヌ」
「エトワール……」
互いに躊躇いながら名を口にした。口にしたけれど、もう隠し事はばれている。もう、元通りになんてなれない。
「今夜、ここで待っている。一人で来てくれないか?」
「……来ないと、言っても?」
「そうだとしても待っている」
腕は離れてしまうと急に冷たくなるように思えた。急いで振り向いても、そこにあるのは彼の背中だけ。軽装に黒いマントが翻るだけ。本当はその背中に言いたかった。「愛している」と。
§
その夜、ユリエルは迷った。行くべきか、行かぬべきか。そう思うのにすっかり身支度をしている。軽装のまま、外套を纏う。剣に手をかけそうになって、その手を止めた。彼と会うのに剣を持って出かけるなんて考えられない。それは、彼を敵として見るのと同じだ。
でも剣を持たなければいざという時、抵抗できずに確実に殺される。
彼に限ってそんな事はしない。彼はそんな人ではない。一人で来てくれといった。話がしたいのだろう。その言葉を疑ったら全ての時間を疑う事になる。全ての時間を疑えば、心が苦しくて辛くて潰れてしまいそうだ。
悩んだ挙句、ユリエルは剣を置いた。そして、傍らにあった竪琴を手にした。もしも彼が嘘をついて兵を伏して死ぬ運命でも、それを受け入れる事にしたのだ。
こっそりと砦を抜け出し、森へと入る。今夜は少し冷える。足を速めていくと日中に見た湖が視界に入る。そこはすっかり夜の顔をしていて、湖面には月が映っている。
そしてその月光の下には、彼がいた。
「エトワール」
「リューヌ」
互いに視線を向け、見つめ合うがその距離はなかなか縮まらない。見つめ合ったまま少しの時間がたった。
「リューヌ」
「はい」
「……ユリエル」
「……はい、ルーカス」
本当の名で呼ばれる事がこんなにも苦しい。ユリエルは俯いてしまった。言葉がない。
「聞かせてくれないか、ユリエル。君は、俺の正体を知っていたのか?」
「いいえ」
これだけは断言できる。知っていたならこんな関係にはなっていない。なるはずがない。叶わない恋に身を焦がすなんて心は持っていない。
だが、ルーカスはそれを知って安心したように弱く笑い、近づいてくる。目の前まできて見つめ合った瞳は、色々なものを秘めているだろう。戸惑い、困惑、苦しみ、愛情。だが、ルーカスの金の瞳はそれ以上の決意を秘めていた。
「もう一つ、聞いてもいいだろうか」
「どうぞ」
「俺と過ごした時間は、本物だったのだろうか」
偽りは多くあった。だが、心まで偽った事はない。例え神に問われても、これだけは真実だ。
「沢山の嘘をつきました。それでも、貴方と過ごし、肌を合わせた時間は嘘ではありません。気持ちを含めて、私は自分の心を偽った事はありません」
「……ならば、いいんだ」
強い腕に抱き寄せられて、ユリエルは戸惑った。戸惑ったが、触れた体温には逆らえなかった。背中に腕を回し、抱き返して瞳を閉じる。近くに感じた体温と心音が心地よい。安らぎを感じる。もう、離したくはない。
「愛している、ユリエル。全てを知っても止められなかった」
「はい……。私も、貴方を想う事を止められなかった。愛しています、ルーカス」
苦しい気持ちが解けていく。温かな心が戻ってくる。惹かれてはいけない相手だと分かっていても、こればかりはどうにもならない。ここにいるのは王ではなく、私人だった。
顔を上げて、見つめ合って、ユリエルは少し背伸びをする。ルーカスは少しだけ身をかがめた。そうして触れた唇は甘いばかりではなかった。けれど嬉しくて、愛しくて心が震えた。
互いの体を抱きしめたまま、時間がゆっくりと過ぎていく。そうして思う存分互いの存在を確かめ合ってようやく、ユリエルは彼を離す事が出来た。湖の岸に腰を下ろした二人は月を見上げていた。