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4話 戦いの後(1)

▼ユリエル


 黒衣の背が見えなくなった。ユリエルは馬上から落ちそうなほどに、力が入らなかった。

 エトワールがルルエ王だとは知らなかった。知っていたなら、溺れたりはしなかった。ただ、もう遅い。こんなにも心が求め、すれ違った事に悲鳴を上げている。


「なぜ……」


 どうして、こんな酷い仕打ちをするのか。心が砕けてバラバラになってしまいそうだ。彼を前に、引き裂かれるような痛みが走った。あの温かな場所は、幸せはもうこの手にない。二度と手に入れる事はできないのだ。

 涙が出そうになった。けれどそれは、近づいてきた馬蹄によって引っ込んだ。


「ユリエル様」

「……グリフィス、状況は」


 近づいてきたグリフィスを前に、ユリエルは表情を引き締める。悲しみと苦しみを心の深くに沈めて、王の顔をした。取り繕うに必死だった。


「ルルエ側の砦に、白旗が上がりました。占拠が完了したのでしょう」

「……行きましょう」


 彼がいた砦。彼の気配が残る砦。それは悲しくもあり、嬉しくもある。少しでも触れられる事に僅かな喜びを感じている。こんな複雑な感情など知らない。それでも止まれずに、ユリエルは噛みしめるように踏み出した。

 砦の門の前にはレヴィンがいた。壁によりかかり、ユリエルを待っていた。その表情は苦痛と疲労に歪み、嫌な汗を流していた。


「レヴィン、どうしました!」

「やぁ、陛下……あっちには怖い暗殺者がいるよ」


 馬を降りて駆け寄ったユリエルに向かい、僅かに踏み出したレヴィンの膝が震えて落ちる。何とか踏みとどまろうとした、その瞬間に歪む表情と滴る血をユリエルは青ざめる思いで見た。


「レヴィン!」


 倒れそうなレヴィンの体を支え、ユリエルはゆっくりと彼を座らせる。押さえている脇腹からは未だ血が溢れていた。


「グリフィス、ロアールを連れてこい!」

「は!」


 グリフィスが愛馬を走らせる。その間に、ユリエルはレヴィンの体を担いで砦の中へと入っていった。


 砦の中は綺麗なものだった。入ってすぐの部屋にレヴィンを寝かせたユリエルは傷の周囲の衣服を剥ぐ。その心中は後悔と焦りで一杯だった。こんなにも彼に負担をかけてしまった事に不甲斐なさを感じて苦虫を嚙み潰している。

 レヴィンの傷は出血の割に浅かった。その出血も、止まる様子を見せている。傷ついたまま動き回ったせいで止まらなかったのだろう。ユリエルはすぐに綺麗な水で傷を洗い、真新しい布で傷を強く圧迫した。


「いっ、た……。陛下、もっと優しく」

「いくらなんでも装備が薄すぎます!」


 胸当てもつけず、布服の下にチェーンメールだけという軽装。頭も腕も守っていない。赤毛なんて目立つのに、一切構わず無防備なままだ。

 その時、部屋の外がにわかに騒がしくなる。そして、駆けつけてきたシリルが青い顔をして戸口に立っていた。

 目に見えて震えるシリルはその場から動けない様子だった。それを見るのは、ユリエルにとっても苦しいものだ。


「お、止血はしてそうだな。さすが陛下、手際が良くて助かる。どれ、診るから全員出て行きな」


 緊張感のない口調で言ったロアールが部屋の中に入り、問答無用で全員を追い出してしまう。出されたユリエルは未だ震えが止まらないシリルを前に掛ける言葉を探した。だが、上手く出てこない。


「……シリル、おいで」


 ユリエルの招きに、シリルは大人しくついてくる。その目はしっかりと据わっているように見える。これは、殴られるくらいでは済まないかもしれない。それでも、全てを受け入れるつもりだった。

 ユリエルは砦の二階にある落ち着いた一室を選んで入った。そして、シリルと向き合った。


「兄上」

「彼に命じたのは私です。私が憎いのなら、今のうちに好きなだけ殴るでも蹴るでもしなさい」


 シリルの手が、痛いくらいに握られるのが分かった。ただ、それだけだった。食いしばるような表情には悔しさが滲んで見える。そしてその目は、ユリエルを見据えた。


「兄上、お願いがあります」

「お願い?」


 思いがけない言葉に、ユリエルは問い返す。小さな体を震わせ、拳を握り、噛みしめる唇は跡がつきそうなくらいだ。そんな状態で、シリルは言葉を続けた。


「僕に、剣を教えてください。僕を守れるように」


 その言葉は、痛いくらい切なくて真剣だった。


「分かっています。レヴィンさんは兄上を守ろうとしたのでも、職務の為に無理をしたのでもない。レヴィンさんは、戦えない僕を守ろうとしてくれたんです。昨日の夜、守る理由が出来たって言っていました。僕が、レヴィンさんを殺してしまう所だったんです」


 シリルの瞳から、我慢できずに涙が落ちる。それでも強くなろうと踏み込んだシリルを、ユリエルは受け入れた。

 無力が悪いわけではない。シリルは今まで守られてきた。それが普通だった。そこから自らの意志で抜け出そうとするのは、勇気のいる行為だ。シリルにとって辛い日々になるだろうに。


「剣を握る事の意味を、理解していますか?」

「はい」

「……気持ちは、変らないのですね」

「守られたままでは、レヴィンさんの負担になります。あの人が死んでしまったら、僕は自分を呪います。分かったんです、本当に大切な人の傍にいる為には僕も強くならなければ」


 欲しい者を見つけた強さだろうか。新緑の瞳が真っ直ぐにユリエルを見ている。幼いとばかり思っていた少年は、いつしかこんなにも逞しく強い目をするようになっていた。


「ロアールに、話をしておきます。ただ、彼の訓練は厳しいものですよ」

「はい、兄上」


 返ってくる返事はとても力強い。もう、子供ではないのだろ。弱くても良かったシリルは、自らその殻を破ろうとしている。戦う事の厳しさと残酷さをロアールは教えるだろう。だが、心配はしていない。今のシリルなら、乗り越えられると信じている。

 健気に、真剣に、幼かった弟は立ち上がった。ユリエルは手を伸ばし、その体を強く抱きしめる。縋ったのだ、不意に襲った苦しみを飲みこめなくて。情けないと自覚し、それでも苦しくてたまらなかった。


「兄上?」

「すみません、シリル……。すみません」


 戦う事がこんなにも苦しくて、こんなにも残酷な事だとは今の今まで知らなかった。人との出会いがこんなにも残酷だとは知らなかった。死ぬよりも辛い。心が潰れてしまいそうで、苦しくて息ができない。

 シリルは黙って、ユリエルに抱かれていた。受け止めてくれるような柔らかさと温かさで見ていてくれる。それが、有難かった。

 どうにか気持ちが落ち着いて、ユリエルは手を離す事が出来た。そして、不器用に笑う。


「レヴィンのお見舞いに行ってあげなさい。意識はありましたから、少しだけなら話もできるでしょう。彼もきっと安心しますよ」

「はい、兄上」


 どこか心配そうな笑みを残して、シリルは駆けていく。その背を見送り、ユリエルは立ち上がった。そうして向かったのは一番大きな扉の前。そこを開けると、どこか彼の気配があるように思えた。


「エトワール……」


 呼びかけても、それに応える声はなかった。

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