雪崩れ込むようにベッドへと倒れ、エトワールはゆっくりとユリエルの衣服を脱がす。だがその手が不意に止まった。金色の瞳は、ユリエルの肩を見ていた。
「リューヌ、怪我をしたのか?」
「え? あぁ……」
ジョシュとの戦いで負った傷はまだ癒えていない。痛みもないし、傷は塞がっているが完全ではない。薄い皮膚がようやくできたくらいだ。
「ここであった戦に、巻き込まれてしまって。いても立ってもいられなくなったのです」
「どうしてそんな無茶をしたんだ! 下手をすれば死んでいたかもしれない」
怖いくらいの真剣な瞳がユリエルを見る。その強さに、ユリエルは少し驚いた。けれど、徐々にじわりと胸の奥が温かくなって微笑んだ。心配される事が嬉しかったのだ。
傷のある右の腕を上げ、ユリエルは強張ったままのエトワールに触れた。そして穏やかに微笑んだ。
「母の墓があるのです。壊されはしないかと、不安になってしまって。私には肉親などありませんから、母が唯一でした。その墓が壊されることだけは、どうしても我慢がならなかったのです」
巻かれた包帯が、ゆっくりと解かれてゆく。傷が露わになったそこに、エトワールはそっと口づけた。薄い皮膚は妙に感触を生々しく伝えるのだろうか。背に走った甘い痺れに、ユリエルは喘いだ。
「綺麗な肌を傷つけて。痛かっただろ? 無茶をしないでくれ」
「心配してくれるのですか?」
「当たり前だ。知らない場所でリューヌに何かあったら。そう思うと不安になる。俺はもう、誰も失いたくない」
苦しそうに吐き出す言葉に、ユリエルは表情を沈ませる。そして、慰めるように優しいキスをした。長く絡める交わりは少しずつ深く、確かになっていく。
「んっ」
「もっとか?」
物欲しそうな顔でもしていたのだろうか。それとも、唇が離れる瞬間に寂しそうな顔でもしていただろうか。エトワールはそれに応えるようにもう一度、深いキスをくれる。そして何度も舌を絡ませて、互いを探った。
引き寄せられ、抱きしめられる。それだけが嬉しい。このまま時間が止まってしまえばいいとすら思える。
「この体を、この心をずっと縛りつけておければと思うんだ。自分勝手なのも分かっているし、お前の幸せを願うならば言うべきではないのだが。だが、願うんだ」
切なげな表情は優しく、そして寂しげだった。ユリエルはそれを見上げて、僅かに睨む。まさかこんなにも心を縛っておいて、縛る気もないとは。無責任だ。
「では、私の心が移らぬうちに戻ってきなさい。私の心まで離れてしまわぬように。……私も、貴方の事が好きですよ。だから、貴方を想い続けます」
言葉は心に届くもの。この心はもう互いに届いている。だから疑わず、変らず、しばらくはいられると思う。ルルエとの関係を改善し、今度は姿を偽らずに彼と会いたい。そうして全てを晒して、もう一度。
触れる手の熱さを感じて、くれる心の深さを知る。彼は愛する事を惜しまなかった。愛など知らないと言っていた人は今、確かにその心で触れてくれる。
ユリエルもまたそれに応えた。慣れぬ体はそう簡単には開いてくれない。こちらもまた、愛情など信じて生きてはこなかった。けれど今は信じている。この人のくれる感情の全てを無条件で受け入れる事ができる。
気遣いの言葉も、我慢する表情も全て自分のものだ。今この時だけはこの男を独占できる。
これが最後……ならば痛みも苦しみもこの身に刻みつけておきたい。そう、願った。
「エトワール……もう、いいから」
「だが、痛むぞ」
「それで構いません。その痛みも刻みつけておきたい。貴方との逢瀬を、忘れぬように」
気遣いは嬉しいが、時には全てを忘れられなくしてほしい。
ユリエルの思いを受け入れて、エトワールがくれた痛みはあまりに深く身に刻まれる。悲鳴に近い声が上がった。それでも、後悔はない。これほどに痛いならきっと忘れない。この思いは確かに存在した。この恋は確かにあった。例え本当に彼と会うのがこれで最後になっても、きっと忘れない。
間違いなく、愛した男と望む形で情を交わしたのだ。
§
荒い息が多少収まり、今はベッドの中で静かに抱き合ったまま。ユリエルは温かく逞しい腕の中で瞳を閉じ、離れがたい気持ちに襲われていた。
「痛い思いをさせてすまない」
「構わないと言ったでしょ? エトワール、もう少し」
こうしていたい。
声にしない言葉を察してくれたのか、エトワールは少し強く抱きしめる。こうして肌を合わせていられればいい。互いにそれを思っても口には出さない様子だった。
「リューヌ、何か語ってくれないか? 悲恋ではない、恋人の話を」
乞われ、ユリエルは腕の中で瞳を閉じる。あまり幸せな話は思い浮かばなかった。けれど一つ、古い話が浮かんできた。
「天女地上に舞い降りたるは、出会いを求め恋を拾いに来たから。男は天女を見初めると、百夜通って彼の女性の心を手に入れた。気持ちを受け、天女は男に真の恋をした。だが、所詮は住まう場所の違う者。時が過ぎ、天女は天界へと戻されてしまった」
「それでは悲恋ではないか」
天界に連れ戻され、離れ離れになった二人。それはまるで今の二人のようだ。だが、ユリエルは柔らかく笑う。そして囁くように、続きを語った。
「天女は地上へと渡る羽を切られ、二度と地上へは降りられぬようになった。だが、想いは募るばかり。心苦しく涙を流す彼女を見かねた天人たちは、彼女に一枚の衣を渡した。それは今ひとたび、地上に降りても戻れぬ衣。だが、彼女に迷いはしなかった。衣を纏い、飛べるとも分からないのに天から飛び降りた。だがそれは不思議と、愛しい男の元へと連れていった。そして二人は、地上で離れる事無く幸せに暮らしたそうです」
声は止まる。ユリエルは普段あまりこうした話をしない。信じていなかったからだ。変わらぬ気持ち、募る想いなど。愛を知らぬままに育ったユリエルは人の心が変わりやすい事を知っていた。口は嘘をつくことも。
だが今、ここに至ってそれは違うのではないかと思った。時にはあるのかもしれない。変わらないかは分からないが、変らずにいたいと願う事。変わらぬ努力をすることを。この話の二人はしたのだろう、想いを変えぬ努力を。
「貴方は私を想い、遠く離れても私の身を案じてくださいますか?」
真剣な眼差しでユリエルは問いかけた。それに、エトワールも確かに頷いた。そしてエトワールも、ユリエルに問いかけた。
「君は俺が帰ってくるまで、待っていてくれるか?」
ユリエルもそれに、静かに頷いた。
「今宵は」
「共にありましょう。少ない時を、分かち合いましょう」
そう言って、二人は再び瞳を閉じて寄り添うように眠った。残り少ない時間を共有するように。
§
それから、更に一カ月が過ぎた。タニスは相変わらずユリエルにとってやりづらい状態が続いていた。だがそれでも、更に数人の不正を暴き裁判にかけ、王宮から追い出す事に成功していた。
だが、一つ気がかりがあった。ルルエに送った親書の答えが返ってこないのだ。それだけがずっと気になっていた。
「陛下、難しい顔をなさっておりますね」
クレメンスが言うのに、ユリエルは苦笑するしかなかった。
その時、廊下を慌ただしく走る音がした。そしてその足音の主はノックもせずに扉を開けて、雪崩れ込むようにユリエルの前に出た。
「陛下、大変です! ルルエから」
その言葉に、ユリエルは身を硬くして入ってきたグリフィスから手紙を受け取った。それは赤い封筒に入れられている。それが意味する事を、ユリエルは知っていた。
震えながら、ユリエルは封を切る。そして中身を確かめて、深く瞳を閉じた。
「グリフィス、ラインバール平原に急使を送り警戒を最高レベルに引き上げるように伝えろ。クレメンス、使える大型兵器の整備と備蓄の確保。二人は他にも部隊の編制と兵の招集をかけてください。後、ロアールに戦えない兵に青紙を送るように言っておいてください」
「陛下……」
緊張と不安が入り混じる視線を受け、ユリエルは静かに頷いた。とても悲しく、苦しい思いのまま。
『ルルエ国はジョシュ将軍の仇を討つべく、戦の構えを崩さない。共存の道はない』
それは、ルルエからの宣戦布告だった。
かくして王都奪還より数か月、兵の疲弊も癒え切らない中、更に過酷な戦へと事態は発展していったのであった。