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19話 悲愴

▼ルーカス


 タニスを離れて一カ月、ルーカスは一人キエフ港へと降り立った。その表情は暗く沈んだままだが、離れた時のような激しさはなかった。

 ルルエに戻ると、これ見よがしに教皇はルーカスを責め立てた。遠回しに「無能だ」と言われることは腹立たしかったが、反論する気力もなかった。

 それでもジョシュが作戦から実行までの責任者であったこと、そのジョシュが最後まで戦って死んだ事で同情も起こり、ルーカスへの国民的非難は起こらなかった。

 もとより国民に寄り添うような王であるルーカスを民は悪く言わない。また、内政を行う者達もルーカスには協力的だった。


 そして今、ようやく頭を冷やす事が出来たルーカスは一人この地に降り立った。国の者にはジョシュの喪に服すと言って引きこもっている事にして。

 目的は二つ。ジョシュのその後を知る事と、リューヌに会えないかという事だった。


 沖に出た船から見た炎は、おそらく兵の葬儀だったのだろう。海からも見えたあの炎の大きさは今でも目に焼き付いている。悔しく、歯がゆい思いだった。それでも、キエフから王都へと向かう道中に遺体が転がったまま放置されている感じはない。

 両国の兵を一緒に合葬したのだろうと分かる。そうでなければ今もまだ、哀れな姿で転がっているはずだ。

 港から王都へと向かう道中、ふと大きな碑が見えてそこへと立ち寄った。そこにはタニス王ユリエルの名と共に、兵を悼む言葉が書かれていた。


「この地に眠りし数多の者よ、どうか願わくは黄泉の世界では、誰も憎まず恨まずに、国の違いなく安らかであれ」


 この言葉を読んで、ルーカスの瞳から涙が一筋流れた。そして膝をつき、手を合わせて全ての者の冥福を祈った。ルーカスもまた、この言葉と同じ事を願ったのであった。



▼ユリエル


 ユリエルは疲れ果てていた。連日重臣がやってきては「王の遺言は本当になかったのか」「正統の王は正妃の子であるシリルではないか」「横暴が過ぎる」と言い立てる。本当に頭の痛い話で、いい加減全て切り捨てた方が早いように思えてきた。

 疲れた時、ふと登り始めた月を見た。綺麗な丸い月だった。


「エトワール」


 あの温かな腕が恋しい。激しいまでの情愛が欲しい。心身共に疲れている今一番傍にいてほしい相手を思い、ユリエルはいても立ってもいられなかった。

 髪を染め、着替えて飛び出すように出かけた。いるとは限らないが、何か呼ばれているような感じがあった。


 そうして王都の噴水の所まできた。最初にエトワールに出会った場所だ。街はあの時と同じく、とても静かで人の気配はない。今は前王の喪が明けきっていない。酒場などに人はいても、噴水広場には人の姿はなかった。

 そんな中、噴水の縁に腰を下ろす影をユリエルは見た。黒い髪に、黒を基調とした衣服を着た彼はなんだか様子が違って見えた。


「エトワール?」


 愛しいはずのその人は、まるで苦しく喘いでいるように思えた。辛そうな金の瞳が見上げ、力なく笑う。もがくような辛い姿を見て、ユリエルの胸は締め付けられるように痛んだ。


「リューヌ」


 名を呼ぶ声に力がない。ユリエルは心配になって駆けるように傍に行く。エトワールは座ったままユリエルを迎え、その手の甲に口付けをした。


「どうしたのです、エトワール。何かあったのですか?」


 不安にかられて問うと、エトワールは苦しそうに微笑み一つ頷く。そして、とても辛そうにユリエルを見上げた。


「どうしても君に会いたかったんだ、リューヌ。どうしても最後に君の顔を見て、君を抱きしめて、ちゃんと別れを言いたかった」

「別れ?」


 その言葉に酷く胸が締め付けられる。不安が加速して、頭痛がする。ユリエルは苦しくて泣きそうだった。今の辛い状況で頑張れるのは、エトワールの存在も助けとなっているのだから。

 けれどエトワールは頷く。その瞳は同じく辛そうで苦しそうだったが、その奥には何かを秘めた強い力があった。


「リューヌ、これでお別れだ。俺は国に戻ってやらなければならない事ができた。もう簡単に、旅に出る事はできなくなる。遠くに行くんだ」

「遠く?」


 エトワールは頷く。そして一度息を吐き、確かな瞳でユリエルを見た。


「俺は、ルルエの出身なんだ。国に戻って、託された事をやらなければならない。旅人を終えなければならない。だから、これが最後。君を探して、どうしても俺の口で話したかった。会えてよかった」


 その言葉は今、ユリエルをとても深い悲しみへと落とすようなものだった。


 エトワールが連れてきたのは、しっかりとした宿屋の一室だった。室内は清潔で明るく、ベッドには柔らかな布団がある。ユリエルは心配してエトワールを見た。


「こんな立派な宿」

「最後の思い出だから構わない」


 力なく笑い、エトワールはテーブルセットに腰を落ち着ける。ユリエルは備え付けの茶器を使って茶を淹れ、それをエトワールの前に置いた。


「手馴れているな」

「昔はそれなりの生活をしていたのですよ。嫌になって、今はこうですが」


 苦笑して座ると、エトワールは穏やかに「そうか」と言って茶を口に運ぶ。そしてホッとした顔で「美味しい」と返してくれた。


「一体何があったのですか?」


 様子の違いを見るとよほどの事が彼の身に起こったのが分かる。旅人を止めてまでやらなければならない事とは何なのか。ユリエルの胸を不安が占めていく。

 エトワールはたっぷりと考えてから静かに瞳を一度閉じ、口を開いた。


「俺はそれなりの家の出だが、今まで自由にしてきた。三つ上の従兄弟がいて、そいつに任せてきた。あまり、家の仕事が好きではなくてな。甘えていたんだ」


 弱った表情で苦笑するエトワールはそれでも穏やかだ。彼の家がどんなだったのか、聞いてみたい気もした。だが、それは止めた。あまり深く踏み込めばユリエルも話さなければならなくなりそうだった。


「その従兄弟が、一月ほど前に死んだんだ」

「!」


 苦しそうな声は、ユリエルに衝撃を与えた。胸の奥がズキズキと痛む。目を見開いたまま見つめたエトワールの表情は、今にも泣き出してしまいそうだった。


「どう、して?」

「……タニス王都で戦って果てた。あいつは、騎士だから」

「!」


 息ができないくらい苦しくて、胸が痛んでたまらない。罪悪感に押し潰されるなんて初めてだ。こんなに痛むのは初めてだ。殺した者の誰が彼の大切な人だったのだろう。その者を、殺したのは自分ではないのだろうか?


「リューヌ?」


 驚いたようなエトワールが傍に来て、強く抱きしめてくれる。胸に顔を埋めて、ユリエルはただ涙を止められなかった。


「どうして君が泣くんだい?」

「……大切な人を失う苦しみを、思い出したのです」


 本当は違う。本当は、土下座して謝りたい気持ちでいっぱいだ。だがそれはできない。第一、なんて言えばいいんだ? 自分がタニス王であると告げるのか?


「悲しい思いをさせてすまない。だが……いいんだ。俺も落ち着いた。聞いた時は憎しみもあったが、騎士は戦うのが使命だから。運命が巡ったのだと受け止める事はできた」

「エトワール」

「ただ、これで逃げる事が出来なくなってしまった。俺の使命を果たさなければならないんだ」

「騎士に、なるのですか?」


 違う不安が押し寄せる。彼が騎士になったら、もしかしたら戦場で合いまみえる事があるかもしれない。そうなればユリエルは、戦えるのか? 心を殺す事ができるのか?

 だがエトワールは静かに笑い、緩く首を横に振る。


「どうだろう。ただ、従兄弟は両国が平和であれるようにと願っていた。俺も、その為に力を尽くそうと思う」

「貴方らしいですね」


 ユリエルはにっこりと笑った。そして改めて誓う。これ以上、二つの国の間で戦など起こってはならないと。

 ふわりと大きな手が頬を包み、柔らかな金の瞳が覗き込む。そして、どちらともなく唇を寄せた。ゾクリとするような一瞬の快楽の後に、優しい気持ちが溢れる。辛いも苦しいも流されてゆく。


「リューヌ」

「はい」

「俺と一緒に、来ないか?」


 真剣な眼差しが見つめる。真っ直ぐな声が告げる。その言葉がどんなに嬉しいか知れない。苦しい今、そこから逃げて彼について行くのはとても誘惑的だ。第一、誰がユリエルの王位を受け入れてくれている。毎日、否定しか耳にしていない。

 だが、それはやはりできない。ここから逃げたらこの国はどうなる? 今のままで行けば、いずれ貧しい者が溢れだす。富める者は横暴となり、弱い者は踏みつけられる。戦争になったら、どうなってしまうんだ。

 拳を握る。ユリエルはどこまでもユリエルであって、リューヌにはなれなかった。


「すみません……」

「リューヌ……」


 願いと現状が合致しない苦しさに胸を握り、ユリエルは言う。また、涙が伝った。


「すみません、一緒には行けません……」


 震える体を抱きしめてくれる腕の中で、ユリエルは何度も願いを切った。それでもまだ、気持ちは訴えた。彼の傍にいることが本当の願いなのだと。


「すまない、苦しませてしまった。君を苦しめるつもりはなかったんだ。君の気持ちや事情を無視した俺が悪い。だからもう、泣くな」

「離れたくはないのです。でも私は……一緒には行けないのです」


 辛い心を押し殺して、それだけを繰り返す。そんなユリエルをエトワールは頷いて、優しくあやすように背中を撫でてくれた。


「今日は一緒にいよう。リューヌ、離れてしまっても心まで離れてしまわないように」


 その言葉に、気持ちに、ユリエルは頷いた。そして、誓いあうようなキスをした。

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