ルーカスは再び外へと目を向ける。そこからは穏やかな月が見えている。その月を見ていると、ふと先程のリューヌを思い出した。自然と波立つ気持ちが凪いで、穏やかになっていく。触れた手の感触まで覚えているようだ。
「何やらご機嫌だね」
自然と笑みを浮かべていたルーカスを見て、ジョシュは不思議そうに問いかける。それに、ルーカスは穏やかな笑みを浮かべ、更にリューヌを思い出して幸せそうに瞳を緩めた。
「双子星に会ったよ」
「え!」
思いがけない言葉だったのか、ジョシュが勢いよく立ち上がる。そして途端にソワソワし始めた。
それというのもルーカスは女の気配が一切ない。今年で二十六、そろそろ結婚も考えなければならないのだが、まったくその気がない。他に兄弟もないせいか、周囲はとても気にしているのだ。
「その双子星は一体どこへ? もしや、タニスの人かい? だとしたら早くこの国を落としてしまわないと。ルーカス、名は聞いているんだろうね。どこに住んでいるんだい?」
「まぁ、落ち着けよ」
焦り取り乱すジョシュの様子を面白がるように、ルーカスは声を上げて笑った。そして、気の毒な従兄弟に種明かしをした。
「詩人を縛るような不粋は嫌われるぞ」
「詩人……なのかい?」
途端、ジョシュは沈んだ顔をする。彼も詩人がどういった存在か理解している。世を捨てた者が結婚など、考えるはずがない。勿論旅暮らしだ、所在を掴むことも難しいだろう。
「……いや、それでも何とか説得してみなければ。特徴を教えてくれれば探させて……」
「彼はとても美しい月よりの使者のようだ。俺はあれほどに美しく、心穏やかにしてくれる相手に今まで出会ったことがない」
「……彼?」
「あぁ、彼だよ」
面白そうな笑い声に、ジョシュはがっくりと肩を落とす。そして、何とも恨めしい目でルーカスを睨み付けた。
「貴方の双子星は男だとでも言うのかい?」
「そのようだ。だがこれは確信だ、彼が俺の双子星。願っても手に入らない、遠くに見るより他にない星さ」
だが、もし叶うならば手元に置きたいとは思った。引き止める事もできなかったが、今ここにきて何故強引にでも手を取らなかったのかと、後悔し始めている。
「美しいリューヌは、そう簡単に手に入らない。だが、そうだな……。俺がこの国を一つにできた時には、改めて探してみようか」
彼はタニスの民。世を捨てたとは言え、ルルエ国王である自分を受け入れてくれるとは思えない。平和に二国を統一した後だ。
「何故この時期に、このような場所に詩人がいたんだい?」
「ここが故郷らしい。不穏な噂を聞きつけて、望郷の思いにかられたそうだ」
「詩人が?」
どこか不思議そうにジョシュは首を傾げるが、ルーカスはそうは思わない。詩人もまた人。誰かの心を動かす詩を伝える彼らの心は実に繊細で、豊かだと思う。いくら世を捨てたとて、初めから詩人であったわけではない。望郷の思いくらいはわくだろう。
「人を思い、過去を思う事もあるだろう。詩人とて人だ、心が無いわけではない」
「確かにそうだが……未熟だ」
「年齢的に俺と同じくらいだろう。若い詩人だった。もしかしたら、旅を始めて日が浅いのかもしれない」
それならば、もしかしたら傍にいてくれるかもしれない。ふとそんな事を思ったルーカスは、すっかり心を奪われた事に苦笑する。そして、振り切るように立ちあがった。
「休むかい?」
「あぁ、そうする。部屋は適当に使う」
「王の寝室が開いているけれど?」
「冗談。そんな事をすれば、古の女王が俺を呪い殺すだろうよ」
憎き王とその愛人の子孫。それがルルエ王家なのだから。
§
執務室を出て、ルーカスは奥院へと向かった。王族の私室などがある場所だ。
そこへ向かう途中、小さな中庭を見つけた。月明かりが青白く照らし出すそこは、小さいながらも綺麗に手入れされている。
そしてふと、そこに無名の碑を見つけた。不思議に思い近づいてみると、それは大きくはなく、あまり立派とも言えない。だが周囲は綺麗にされていて、雑草などはない。百合の花が植えられ、凛と咲いている。碑自体もとても綺麗に掃除がされ、磨かれている。
「もしや、墓標なのか?」
だが一体、誰がこんな所に葬られているというのか。しかも無名で。王族の端にある者だとしても、あまりに酷い扱いだ。
だが、大切にしている者がいるのだろう。そうでなければこれほど綺麗に整えられてはいない。苔もなく磨かれ、美しい花が植わっている。
尊く、そして非業の者が眠るのだろう。だが、きっと高貴だったはずだ。この碑はそこに立つだけでこんなにも背筋が伸びる。ルーカスは静かに手を合わせ、騒がせたことを詫びた。
その場所から周囲を見回すと、二階の一角に他の部屋とは様子の違う窓を見つけた。カーテンの色や、様子が他とは違う。
何の気もなく自然と、ルーカスの足はその部屋へと向かっていた。
部屋はすぐに見つかった。同じような扉が続く中で、その部屋の扉だけに百合のレリーフが施されていた。
扉を開けて中に入ると、室内は綺麗に片付けられている。明かりを灯しても生活感があまりない。少し大きな執務机に、客人を迎えるソファーセット。少し広めのベッドには明るいアクアブルーの布団がある。窓にもコバルトの重厚なカーテンがかかっていた。
整頓されたこの部屋から、持ち主の性格も見えるようだ。贅沢を好まず、きちんとした性格をしている。だが、一部好きな物を手元に置いて楽しんでいるのだろう。
部屋の空気はよく入れ替えられ、掃除もされている。だが、背の低い棚の上に置かれている花瓶の百合は萎れていた。おそらく主が留守にして少し経っているのだろう。
棚の中を見てみると、そこには綺麗なティーセットが数組置かれている。白い磁器に彩色された物が多い。そして数種類の茶葉の缶。部屋の主の趣味だろうか。
だが、ルーカスの目を引いたのはそこではない。その棚には何故か鍵がかけられている。しかも、幾つもの銀のスプーンが置かれている。セットの数に対して明らかに多い。そしてそこに、シュガーポットなどは見当たらない。
「もしかして……」
毒を警戒していたのか?
銀は毒に反応する。その為、王侯貴族は銀器を好む。その仮説を証明するように、無造作に置かれたスプーンはどれも黒ずんでいた。
「……! まさか、ここが?」
ルーカスは部屋を見回す。書棚には歴史や政治、経済に関わる書籍が多い。机の中には何一つ物が残っていない。そして、常に暗殺の危険に晒されていた人物。
「ここが、王太子の部屋なのか?」
こんなにも何もない。常に辺りを警戒し、毒殺を恐れ、自身で茶を淹れていた。それほどまでに不遇を背負ってここにいたのか。
そう思うと、気の毒になる。きっと彼の心は、彼が好む百合のように清廉だろう。それを感じさせる雰囲気がこの部屋にはある。
ふと、書棚の中に他とは感じの違う書籍を見つけた。それは、神話や星に関わる本。他の重厚な本に隠れるように置かれたそれを手に取ると、だいぶ読み込んだのか古くなっている。
意外だった。そしてそこに、人間らしさを見たような気がした。
改めて室内を見回す。ここが王太子の部屋であるなら、主が去ってかなり経っているはずだ。だが、毎日綺麗に掃除がされ、空気を入れ替えているのが分かる。この城にも、彼を慕う者がいた証だ。萎れた百合だって、精々数日しか経っていないだろう。主がいないにも関わらず、誰かが飾っていたのだ。
ルーカスは衣服を脱いで胸元を寛げ、アクアブルーの布団をめくる。そしてそこに寝転がり、今日一日を振り返って穏やかに瞳を閉じた。