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7話 月下の出会い

 王都陥落から三日、街に変った様子はない。街並みは美しいまま、起こった惨事を感じさせるものは何一つない。

 だがやはり夜は敬遠されるのだろうか、人の姿はない。かつては遅くとも酒場に明かりが灯り、広場では大道芸人が磨き上げた芸を披露していたが。

 詩人は中央にある噴水の縁に腰を下ろした。その表情は憂いている。長い水色の髪を下ろした彼は、物悲しくジェードの瞳を巡らせ、手にした竪琴を爪弾く。


「愛は憎悪の裏表

 愛した人よ、何故私の心を踏みつけた?

 海より深い愛情は、海より深い憎しみに

 憐れ二国は赤く染まり、二度と交わる事なかれ」


 詩人の声はあまりに透明でよく通り、夜闇に消えていく。誰もこの詩を聞く者はない。これは敬遠される詩。あまりに悲しく、あまりに生々しい。


 二国はかつて、一度だけ一つとなった。大国だったタニスの女王とルルエの王は愛し合って結婚し、国を一つとした。だが、それは裏切りによって終わりを迎える。それよりずっと、二国は憎み合ったままだ。


 詩人に扮したユリエルには、この話の心が分からない。愛などと不確かなものを彼は信じていない。そんなものの為に国を分かち、戦を起こした女王の心が分からない。

 ポロリポロリと、寂しげに竪琴が鳴る。だがふと、夜の闇から一つの拍手が贈られた。

 驚いたのはユリエルの方だった。思わず立ち上がり、辺りを見回す。今まで他の気配などまったく感じていなかった。

 音は丁度背後、噴水の水を挟んだ先からだった。


 それは、まるで夜のような青年だった。簡素な服装に剣を一振り下げる姿は、どうやら旅人のようだ。短い黒髪は艶やかで、端正な顔を縁取っている。瞳はまるで星のように明るい金色。優しく穏やかな視線がユリエルへと向けられていた。


「すまない、驚かせてしまったか」

「いいえ」


 彼はゆっくりと歩み寄り、申し訳なさそうな顔をする。物腰や所作が優雅だ。きっと、それなりの家の出なのだろう。


 旅人は、ある意味で世捨て人のような存在だ。僅かな路銀で旅をし、世界中を回る。その先々で小さな仕事をしながら、起こる出来事を記録してゆくのだ。遺跡を巡り、歴史を紐解く学者のような存在。

 そして詩人もまた、同じような存在だ。歴史を伝え歩く世捨て人。路銀を持たず過去を捨て、縁を絶って旅をする。そして、歴史や神話を人々に語り歩くのだ。

 双方共に国境の審査が甘く、二国を行き来できる存在。それは、世界と縁を切った者達だから。


「美しい歌声と音色に、おもわず聞き惚れてしまった。驚かすつもりはなかったのだが、拍手を贈らずにはいられなかった」

「そのように褒められても何も出はしませんよ。私は詩人、持たぬ者です」

「あぁ、知っている。俺も君に贈るのは拍手と賛辞しか持ち合わせてはいない。俺も旅人だ」


 双方そのように言って、その後は互いに破顔した。互いに笑い、自然と隣り合って噴水の縁に腰を下ろす。彼の金色の瞳が、とても柔らかくユリエルを見つめる。


「そういえば、名乗っていなかった。俺はエトワール と言う。君の名を聞かせてはもらえないか?」

「リューヌと申します」

「リューヌか。俺と相性のいい名だな」


 楽しそうにエトワールが笑う。それに、ユリエルも頷いて笑った。


「それにしても、物悲しい詩だ。その詩はあまり聞かないな」

「物悲しいが故に語られないのです。二つの国が憎み合うようになった始まりの詩など誰も好みはしません。故に、伝える者が少ないのです」


 詩人と言えど民の好みを優先する。明るい詩、英雄譚、美しい姫の話は好んでされるが、こうした悲しい歴史を伝える詩は人気がない。だが、今この街においてこれほど相応しい詩もない。遥か昔の憎しみが、未だに二国を呪っている。今も、まさに。


「リューヌ、君は何故この街に?」


 エトワールは疑問そうに問いかける。それに、ユリエルは曖昧に笑った。


「私はこの街の出身なのです。世を捨て、過去を絶った私ですが、不穏な話を耳にして居ても立っても居られず、こうして来てしまったのです」


 半分は本当だ。街の様子が気になって直接見に来た。変装をし、馬を走らせて。幸い聖ローレンス砦から王都までは駿馬に乗って夜通し走れば二日程度。国一番の馬であるローランであれば更に早く到着できた。

 エトワールはとても気遣わしい表情をする。金の瞳が悲しげに伏せられるのは、何よりも彼の優しさを映しているようで好ましかった。


「辛い事だ。この街に縁者はまだいるのか?」

「いいえ、おりません。私は天涯孤独です」


 いとも簡単に嘘をついて、ユリエルは苦笑する。そして改めてエトワールを見た。


「貴方は、何故ここへ?」

「たまたまこの近くを旅していて、悲報を聞いた。旅人は大きな歴史の動きを追う。それが役目だろ?」

「そうですね」


 歴史を書き残す事が旅人の定め。崇高にして不可侵の存在。歴史や神話を記録する彼らは誰であっても意のままにできない。それはいつの世も、二国共通の事柄だ。


「君が争いに巻き込まれず、良かった」

「お互いに」


 そう言って、二人は穏やかに笑い合った。

 それはとても不思議な感覚だった。尖った心が落ち着いていくのをユリエルは感じていた。それほどに、このエトワールという青年の持つ空気は穏やかで包み込むような優しさを持っている。

 やはり、多少気持ちが弱っているのだろう。気ばかりが焦っている。だから、彼の穏やかな包容力に寄り添いたい気持ちになるのだろう。


「疲れているのかい?」

「えぇ、少し」

「辛いなら、どこか場所を探そう」


 温かく大きな手が触れる。意外と節くれた、硬い手をしている。だが、気遣わしく触れてくれるのは何よりも優しく、安堵した。


「気遣いのみで。巻き込まれる前に発つつもりです。詩人を害するは天への道を閉ざす行い。けれど、今はそんな事が起こってもおかしくはありません。人の心は荒れてしまえば、後は悪魔が囁くものです」

「そうだな……」


 ユリエルの意地悪な言葉に、エトワールはとても悲しそうな顔をする。金の瞳が、本当に悲しげに眇められた。

 ユリエルは手を伸ばしてみた。エトワールの触れる手に、手を重ねてみた。心地よく思える。何よりも安らぐ。まるで半身を得たような、不思議な感覚だ。こんな風に他人を傍に感じたことはない。弟のシリルでさえ、こんなに近くはないというのに。今日初めて会ったこの青年には、これほどまでに安らぎを感じる。


「不思議な人。持たぬ私の心を捕える者が、まさかいるとは」

「それは俺も同じだ。何故か分からないが、俺も君をとても近く感じている。初めて出会ったとは思えないくらいだ」

「では私たちは、同じ星を持つ者なのかもしれませんね」


 コロコロと鈴を転がすように笑うユリエルは、自分の言葉を反芻して妙に納得した。

 星は時に双子のようであるという。運命の相手に巡り合う事を「同じ星を持つ」と言うくらいだ。双子の星は寄り添って離れる事はない。同じく瞬き、夜を飾る。

 隣で、エトワールも妙に納得したように笑って頷く。その笑みの気持ちよいこと。心からそれを信じるようだ。


「では、巡り合うべくして巡り合ったのだろう。旅人の神に感謝しなければならないな」


 実に優雅に言うものだから、ユリエルはキョトとしてしまう。そして次には愉快そうに声を上げて笑った。


「どうした?」

「いいえ。貴方は旅人にしておくには惜しいと思いまして。饒舌な人、貴方は詩人のようですね」

「そのような美意識は持っていない。俺は不粋な男だよ」

「また、そのような事を」


 笑いを収め、ユリエルは真っ直ぐにエトワールを見る。そして、ゆっくりと口を開いた。


「出会いは時に残酷なもの。離れがたい気持ちを抑えて手を離すのは、こんなにも名残惜しい。ですが、詩人が宿り木を求めれば死んだも同じ。これで、行く事にします」


 本当に名残惜しい。だが、今のユリエルには何もできない。やるべきことが多すぎる。心の癒しなど求めている場合ではない。

 身を引き、丁寧に礼をする。だがエトワールは少しだけ近づいて、その手を取って甲に唇を押し当てた。


「月は人を優しくも、裸にもする。俺は最初、君は月よりの使者ではないかと思った。驚かせては消えてしまうかと、そっと寄り添っていたのだが。時が来れば消えてしまうと、覚悟しておかなければならなかった。美しいリューヌ、夜は人を獣に変える。不埒な輩に囚われる前にお帰り」


 まるで歌うように流れる言葉に、ユリエルの方が頬を染めてしまう。あまりにクサいが、それが似合う人もいる。普段ならば笑い飛ばすだろうが、今はすんなりと受け入れてしまった。

 ユリエルもまた、エトワールの手を取ってその手の甲に唇を寄せた。


「月は恋人たちを引き合わせ、その心を裸にするといいます。今宵私は寄る辺なく、引き寄せられるようにここにきました。そして、貴方に出会った。この出会いを月の女神に感謝し、旅人の神に願いましょう。貴方に、旅人の加護があらんことを」

「俺も願おう。旅人の神が君の上で微笑むことを。そして叶うならば、再びどこかで巡りえることを」

「場所は離れても同じ陽の下、月の下におります。世界は広いようで案外狭いもの。旅人の神も再び、気まぐれを起こしてくれますよ」


 そう言うと、名残惜しいがユリエルは手を離して背を向けた。そしてゆったりと、入ってきたのと同じ門へと向かうのだった。

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