タニスは国境線にばかり兵を集中させたことで王都の守りは甘くなっていた。そこを、ルルエ軍は狙っていたのだ。あえてラインバール平原に注目を集め、撤退と進軍を繰り返して兵を離れられなくした。
その一方で時間をかけ、タニスの商人を買収して兵を送りこんだ。変装させ、一般人として潜伏させ続けて一カ月以上。今宵、機は熟した。
用意していた攻城兵器により王都の外門を破ってから三時間で城は陥落。抵抗した第二部隊の大半は戦死したが、城にいた人間はほぼ逃げた後。
そして王は、静かに敵の手に捕えられた。
▼シリル
その頃、難を逃れたシリル達は王都から続く古い地下水道を進んでいた。水道と言っても使われなくなって百年は経つらしい。既に水もなく、細く入り組んだ道がどこまでも続いている。
この水道はユリエルがいる聖ローレンス砦にほど近い廃教会まで続いているという。そこからは山越えになるかもしれないそうだ。
「シリル様、大丈夫ですか?」
先頭をゆくグリフィスが心配そうに声をかけてくれる。ここに入った後、内側から硬く閂をして、更に鉄の錠をかけた。それでも長居したくないと、既に三時間以上歩き通している。
それでも、シリルは笑みを見せた。額には汗が浮かび、その足はくたびれてよろけそうだが、そんな様子は見せなかった。
「僕は大丈夫です。それよりも、父上や城はどうなったのでしょう」
不安がこみ上げて思わず口をついた。
「まぁ、落ちたでしょうね」
何とも簡単な言葉に、シリルの胸は不安に苦しくなる。すぐ傍を歩いているレヴィンがそんな事を言った。途端、グリフィスの眉根に皺が寄る。不穏な空気にシリルは慌てて二人の間を取りなした。
「大丈夫です! 覚悟は、していましたから。それよりもグリフィス将軍、兄上の所まではどのくらいかかりますか?」
「この地下水道だけで一週間程度は。地上に出てからも状況によっては山を越える必要がありますので、更にかかると思います」
「そう、ですか」
それを聞いて、シリルは不安でたまらなかった。予想よりも遠い道行に、果たしてついて行けるのかと心配になったのだ。既に足はだるく、痛くなってきている。
それでも弱音は吐けない。自分一人が足を引っ張っては、全員が立ち往生してしまう。
「ところで、ユリエル殿下ってどんな人だい?」
落ち込んでしまいそうな気持ちを逸らすように、レヴィンが問いかけてくる。軽い雰囲気と口調はこの緊張感のなかでちぐはぐに感じる。けれどそれが、余計な緊張を解いてくれるようだ。
「兄上はとても頭が良くて、武に長けた人です。とても優しいですよ」
「本当に? 怖いって噂だけど」
「優しいのはシリル様にだけだ。あの方は基本、無能な人間に情などかけない。完全な実力主義と言っていいだろう。出来過ぎた方だからな、恐れる人間も多い」
「そんな事は! 兄上はそんな非情な人ではありません。それに、王に相応しい人です」
シリルは必死に否定した。けれど、実際はどうなのか分からなかった。
シリルに対しては優しく穏やかな兄である。けれど、他の人の話を聞くとそればかりではない。潔癖な性格も、強い信念も知っている。それが他人への厳しさになっているのだと思っている。
「実力主義か。それは俺には有難いかもね。ほら、縦社会っていうの苦手だからさ」
考える素振りを見せるレヴィンが、どこか楽しそうな笑みを見せる。なんだか、少し不穏に思えた。
「兄上は僕がいる事で不遇を受けてきました。それでも、僕に優しくしてくれるのです。僕の……唯一の肉親なんです」
母は既に亡い。父も、どうなったのか分からない。今確かに居るのは兄だけになってしまった。そこに甘えてしまうのは、都合がよすぎるかもしれない。自分がいる事で兄の立場が悪くなっているのは確かな事なのだから。
「では、ユリエル殿下はシリル殿下を恨んでいないのかい? 正直に言って、殿下がいなければ自分の地位は盤石なものになるだろ?」
レヴィンのその言葉に、シリルは心臓を掴まれた気分がした。考えないようにしていた事だ。そこを考えてしまったら、誰を信じていいか分からなくなる。優しい兄の全てを、疑わなければならなくなる。
一瞬、グリフィスの気配が尖った気がした。ここでレヴィンとグリフィスの仲が険悪になるのは避けなければ。こんな閉鎖的な状況で喧嘩などになれば、今後良くない事が起こるかもしれない。だから必死に、シリルはグリフィスを抑えた。
そして、レヴィンに向かい動揺を隠そうと必死に笑みを浮かべ、首を横に振ってみせた。
「僕が邪魔なら、兄上はとっくに僕を亡き者にしているでしょう。そうなっていないのなら、僕はまだ兄上にとって必要な存在であると……思いたいです」
言いながら、何かが腑に落ちるのが悲しい。兄が自分に優しい理由は、これなんじゃないかと思えてくる。それなら納得できる。兄にとって何かしらの利用価値があるから、傍に居させてくれるんだ。
不安がこみ上げる。次に顔を合わせた時、自分は兄をまともに見られるのか分からない。どんな顔をして会えばいいか、分からなくなる。兄はどう思っているのだろう。肉親として、弟として、愛されているのだろうか。
「疎まれてはいないと?」
「そう、信じます」
レヴィンが疑いの目を向ける。それに対して咄嗟に出た言葉が全てだ。信じよう。今はそれしかきっとできない。
鋭かったレヴィンの目が、不意にふわりと和らいだ。途端に空気も和らいで、緊張が解けた。泣きそうになってしまう。許されたような、解放されたような、そんな不思議な空気があった。
「そっか。うん、信じる事は大事だよね。まずはそこからだし」
そう言ったレヴィンが申し訳なさそうに笑う。そして、視線をグリフィスへと移した。
「そろそろ一度休憩入れないと、俺達ならいざ知らず殿下は倒れてしまうよ。そうだろ、グリフィス将軍」
「……そうだな。もう少し行ったら、少し開けた場所に出る。そこまでもうしばらく頑張ってくれ」
重く溜息をついたグリフィスが皆に向かって激を飛ばす。シリルもまた、隣を歩くレヴィンの手に導かれるようにゆっくりと進んで行った。