城の中庭に静かに眠る母は、その碑に名を刻むこともできなかった。それでも、ユリエルは遠征から帰ると必ずここにきて報告をしている。
ただ、次はいつになるか。それを考えていた。
「兄上、やはりここにいらしたのですね」
不意に柔らかな声が廊下からした。そちらに目をやると、まるで陽だまりのような温かい笑みを浮かべた少年がいた。
柔らかな栗毛に、大きなクルミ型の瞳は柔らかな新緑のようだ。純粋な心をそのまま形にしたような、優しい少年がそこにはいた。
「シリル」
「僕もそちらへ行ってもいいですか?」
ユリエルの許可を取ってシリルは近づいてくる。そして、ユリエルの隣で同じように瞳を閉じ、手を合わせた。
この弟はとても優しい。いや、母子というべきか。
シリルの母はユリエルの母と親友だった。とても優しい人だった。その為、ユリエルが疎まれる事を悲しみ、母亡きあとは本当の息子のように可愛がってくれた。
ユリエルが王太子となれたのもシリルの母の助力があったからだ。彼女は長子のユリエルが太子となるのが世の習わしだと言って譲らなかった。結果、ユリエルは王太子となったのだ。
そのシリルの母も今は亡い。そしてシリル自身も十五歳となり、成人の儀をすませた。ユリエルの立場は、揺らぎ始めていた。
「兄上、しばらくは王都にいるのですよね?」
閉じていた新緑の瞳が開き、あどけない笑みがユリエルへと向けられる。
それに、ユリエルは苦笑するしかない。謀略にこの子は深く巻き込まれている。それを、今ここでこの子に明かす事は躊躇われた。
だがシリルは心を読み解く事ができる子だ。曇ったユリエルの表情から何かを察したように、表情を曇らせた。
「また、どこかへ行ってしまうのですか?」
「すいません、シリル。また少し離れることになりそうです」
「僕が我儘を言うべきでないのは分かっています。ですが、兄上は少し忙しすぎます。せっかく戻ってきても一月とここにはいてくださらない。体は大丈夫なのですか? 怪我などはしていませんか?」
優しく気遣うように萎れた声が問う。その優しさは、ささくれた気持ちを優しく包むようだ。
その時、また違う足音が廊下に響いた。体重のある者の、妙に堅苦しい規則的な足音。それは少し急いでいるように思えた。この足音の主をユリエルは知っている。そして、彼がここに来ることも予測していた。
「殿下!」
「グリフィス」
廊下からユリエルを見つけて声をかけた男は、とても険しい顔をしていた。
「殿下、話しを」
「グリフィス、後にしてくれませんか?」
「ですが!」
「グリフィス」
声を荒げるわけではない。だが、ピシャリと言い放つ声には鋭い命令の色がある。大柄な青年はそれ以上なにも言うことができず困った顔で立ち尽くしてしまった。
「兄上、僕は」
「シリル、私に何か用があったのではありませんか?」
さきほどの青年に向けたのとは違う、柔らかく温かな声にシリルはおずおずと頷く。
「あの、お帰りになったと聞いて嬉しくて。お茶をご一緒できないかと」
「いいですね。では、庭に出ましょうか。今頃は薔薇が見頃でしょう」
穏やかに言って、ユリエルはシリルの背に手を回して促した。それに、シリルも戸惑いながら従う。
残された青年は物言いたげだったが、傍を通り過ぎる頃には諦めたように困った顔をして小さく礼を取ったのだった。