――儀藍。
刀夜の懐刀にして剣の師。もう五十手前だと言うのに、その体躯はがっちりとして衰えを知らない。
「刀夜様、例の件の裏付けが取れました」
儀藍は刀夜に耳打ちした。
「やはり蘭華が窮奇から聞いた通りだったか?」
「はい……残念ながら藍鈴の二親は既に……」
窮奇が齎してくれた情報には藍鈴の両親の事もあった。どうやら娘を人質にされた藍鈴の両親は、聆文の命で窮奇を襲い返り討ちにされたらしい。
「聆文め、窮奇を堕とす為に無辜の民を生け贄にするとは……」
「そして、その事実を伏せ、既に亡き親を人質として藍鈴に窮奇で人々を襲わせる……聆文様の酷虐非道な振る舞いはあまりにも……」
「これは藍鈴には教えられないな」
――さわ……
その時、微かな風が流れたのを刀夜は感じた。それは宮中ではあり得ない森の匂いを運んできた。
「「――!?」」
刀夜と儀藍は同時に腰の剣に手をかけた。明らかに異質な空気に二人は警戒する。
「何奴!」
儀藍が渡り廻廊を飛び降り抜剣した。いつの間にか庭園に一人の女性が立っていたのだ。
歳は二十代半ばくらいだろうか。簡素な深衣を纏っているが佇まいは凛としている。長い髪も衣類から覗く肌も新雪の如く白い。作り物ではないかと思える程に整った恐ろしい程に美しい女。
「待て儀藍!」
遅れて降りて来た刀夜が儀藍を制止する。
「刀夜様、危険です」
「大丈夫だ」
刀夜は構わず女の前まで無防備にすたすたと歩み寄る。
(やはり目が……)
近くで見れば瞳が光を失っているのが分かる。霊的にも物理的にも護られている城内に入り込める白髪盲目の美女。そんな存在を刀夜は一人しか知らない。
「
刀夜の呼び掛けに、白き美女は見えない筈の目を向けた。特に表情は変わらず、その心の内まで読めない。
「
「泰然に呼ばれて来たのじゃが……ついでに、一つお主に申しておきたい事があっての」
「俺に?」
「一つは藍鈴、あの
懸念が一つ消えて刀夜はホッと安堵した。白姑仙が直々に庇護をすると宣言したのだから、聆文と言えども手が出せなくなるだろう。ひとまず彼女の身の安全は考えてよい。
「もう一つは蘭華、お主は随分とあの姑娘に執心のようじゃが……できればそっとしてやってくれぬか?」
「俺は別に蘭華の暮らしをかき乱すつもりは……」
「お主の意思とは関係なく、お主が関われば蘭華の平穏は崩れるじゃろう。蘭華が抱える闇はお主が思うておるよりずっと深い」
それまで無機質に響いていた白姑仙の声に、どこか寂しさの様なものを刀夜は感じた。
「蘭華の抱える闇……それはいったい?」
「もし、お主が蘭華と共に歩む道を選ぶのなら、それも共に背負う覚悟が必要じゃ」
「教えてくれ白姑仙、蘭華はいったい――ッ!?」
――びゅうっ!
刀夜が問い掛けた刹那、突風が吹き抜ける。不思議とその風には常夜の森の匂いを孕んでいた。
思わず閉じた目を開いた時には既に白姑仙の姿はどこにもなかった。
『ゆめゆめ忘れるでないぞ』
姿なき白姑仙の声だけが残る。
「今のが名高き盲目の導士白姑仙ですか」
白姑仙のいた場所に厳しい目を向けながら儀藍は唸った。
「初見では大した者とも思えなかったのですが……まるで力量が量れませんでした」
「儀藍でも勝てぬか?」
「無理でしょうな」
儀藍は首を横に振った。
「敵に回したくはないな」
「恐ろしい相手です」
「まあ、今回は蘭華について釘を刺しに来ただけのようだが……」
「刀夜様、その蘭華の件についてなのですが」
刀夜に近づき儀藍が声を潜めた。
「かの者の素性が判明いたしました」
「分かったのか!?」
「二十年程前に紅月家当主
「それが蘭華だと?」
「その可能性が高いかと……紅月家は地官の家系。戸籍の
地官は民政に関わる役職であり、戸籍、爵位、教育などに携わる。その長ともなれば、容易に戸籍を誤魔化せるだろう。
「ここでも栄冉か……」
身分制度改変の壁となっている栄冉が、その身分に苦しんでいる蘭華の父親。
それは何と皮肉な事か。
(白姑仙の言っていた蘭華の闇とはこの事なのだろうか?)
確かに蘭華の素性の秘密にはきな臭いものを感じる。栄冉という人物も日輪の国が抱える大きな闇だ。だが、白姑仙の言う闇とはそれだけではないように刀夜には思えた。
「ところで蘭華と言えば刀夜様は先日会いに行かれたようですが?」
「ああ、未払いとなっていた工賃をな……」
「それでしたら誰ぞ使いに任せても」
「いや、他にも用があってな」
刀夜は陽に紅く染まった雲が月門へと続く空を見上げた。
「贈り物は気に入ってもらえただろうか?」
常夜の森に報せもせず訪問したら驚き目を丸くした蘭華を思い出して刀夜はくすりと笑った。