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第二十話 常夜の魔女と反物屋の女将


「銀十両だよ」

「はぁ!?」


 無茶苦茶な値段を聞いて、翠蓮は素っ頓狂な声を上げた。そして、すぐに憤怒の表情になると、バンッとー両手を机に激しく打ち付けた。


巫山戯ふざけないでよ!」


 翠蓮はかんかんに怒って反物屋の女将に食って掛かった。だが、それも無理はない。提示された金額は机の上に置かれた一巻きの生地のもの。


「相場の十倍じゃない!」


 確かに反物は高級品だ。


 だが、綿や麻でも仕立て込みで銀三から五両(銀一両=約16g)、反物なら一反銀一両程度である。因みに銀一両は百六十銭であり庶民一人が二、三週間遊んで暮らせる金額だ。


 銀十両とはそれくらい高額なのである。これが絹ならまだ理解できるが、目の前の生地はそんな上等な物ではない。女将は完全に法外な値段を吹っ掛けている。


「知らないよ」

「いい加減にしなさいよ!」


 だが、無茶な値段を要求した店の女将は、不機嫌そうな顔でそっぽを向いて取り合おうともしない。翠蓮はいよいよ激怒した。


「ふん、嫌なら他所よそへ行っておくれ」

「月門には此処しか反物屋ないじゃない!」

「なら他のまちへ行けばいいさね」

「このッ!」

「ちょっと落ち着いて翠蓮」


 女将に掴み掛かろうとする翠蓮を蘭華は後ろから押さえ込んだ。蘭華はなだめようとするが翠蓮の腹立ちは収まらない。


「だけど、この業突ごうつく婆ぁが!」

「翠蓮!」


 暴言を吐こうとした翠蓮に鋭く名を呼んで蘭華はたしなめた。


「他人を罵ってはいけないわ」

「で、でもぉ」

「人の言葉はことほぎ、言祝ぎしゅくふくであり呪言のろいでもあるのよ。口から出た言葉は、良いにつけ悪いにつけ現実のものとなって自分も相手も縛ってしまうの」

「あ、うっ、はい……」


 薄茶色の髪をそっと撫でると翠蓮は素直に大人しくなった。そんな翠蓮に優しく微笑むが、実は内心では蘭華も女将の態度に困惑していた。


 女将の名は玉玲ぎょくれい


 歳は四十半ばの恰幅の良い女性で、反物屋として裏表なく誠実に商売をしている人物であった。決して蘭華に好意的という訳ではなかったが、今までこんな底意地の悪い振る舞いをされた事はない。


 蘭華は前に出て真っ直ぐ玉玲を見詰めた。


「どうしても銀一両にはなりませんか?」

「ならないね!」


 蘭華の紅い瞳が寂しさと哀しみにかげり、玉玲はたじろいで目が泳ぐ。


「な、何だい、私にも化け物をけしかけるつもりかい!」

「玉玲さん……」


 ああ、そう言う事かと蘭華は得心が行ったが、同時に落胆の息が漏れた。


「可愛い甥っ子がお前に怪我を負わされたんだ!」

「蘭華さんがそんな真似するわけないでしょ!」

「信じられるもんかい!」

「この!……」

「行きましょう翠蓮」


 反論しようとする翠蓮を止めた。門番の男達と同じである。人はいったん信じたいものを真実と思い込んだら弁明しても無駄だ。


 これは呪いと同じ。己の呪詛ことばで己に掛けた呪いは己の言祝ぎことばでしか解呪はできない。


「玉玲さん、失礼しました」

「さっさとどっか他のまちへ行っておくれ!」


 玉玲の罵倒に何も答えず静かに蘭華は頭を下げてきびすを返した。


 店から出た蘭華の胸の内は荒涼に一人佇む寂しさに似て、そこにただ冷たい風が吹き込んで来る。


(この苦しみ、この痛み、この哀しみは何だろう)


 涙は不思議と零れない。ただ、胸にぽっかりと穴が空いたような虚しさがあるだけ。


「蘭華、元気ない〜」

「どうかしたのか?」


 様子の奇怪おかしな蘭華を百合と芍薬が心配そうに覗き込む。曖昧に微笑む蘭華を牡丹はじっと見詰めていたが、慰めるように顔を擦り寄せた。


「必要な物は揃ったし帰ろうかの」

「そうね牡丹……ありがとう」


 何も買わずに店から出てきた自分に何も尋ねず、そっと寄り添ってくれる牡丹の心遣いに蘭華は感謝した。


「蘭華さん、ごめんなさい」


 しょんぼりとまなじりを下げる翠蓮の瞳が濡れて光る。それは翠蓮の蘭華への思い遣りで、心に生まれた空虚が僅かに埋まる。彼女の蘭華への想いが何より嬉しい。だから自然と笑顔が溢れた。


「翠蓮の責任ではないわ」

「蘭華さぁん!」


 涙を溜めた胸に飛び込んだ翠蓮の頭を蘭華は優しく撫でた。翠蓮には感謝しかない。まだ自分が笑えるのだと教えてくれたのは翠蓮だから。


「ありがとう翠蓮」

「何もしてません……蘭華さんの為に何も……」


 翠蓮はやるせない。


 蘭華に救われてから恩返しをしようとずっと思っていたのに。翠蓮がどれだけ奔走してもまち人の蘭華へ向けられる偏見はなくならない。


「それは違うわ。翠蓮が傍にいてくれて私は本当に救われているの」

「蘭華さんは優し過ぎます」


 柔らかく抱き止めてくれる蘭華に身を預けて翠蓮は潤んだ瞳で見上げた。


「私、蘭華さんとなら何処だって……いっそこんなまちから一緒に……」


 翠蓮は一世一代の告白をしようとして――


大姐おねえちゃん!」


 ――少女の元気な声に遮られた。


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