その翌日。
手土産を持って村に帰ると、子どもたちが僕の周りに集まってくる。
その人だかりに誘われて周囲の大人たちも、なんだなんだと集まってきた。
「こりゃあ、見事な牝鹿だ!」
集まった領民たちは、みな口々に感嘆の声を上げた。
僕が近くの森から持ち帰ったのは、体長2mもある大きな牝鹿だ。
体重はおおよそ170kg、可食部にして90kgはあるだろう。
これは約14万キロカロリー、村に必要なカロリーの2日分に相当する。
「数時間前に狩ったものだ。血と内臓を抜いて、川の冷水に晒してある。誰か、食肉の処理が得意なものはいるかい? 皮を剥ぎ、肉を燻製にして加工してくれ。また食べる時は、十分に火を通すように」
そう言って領民たちに指示を飛ばす。
彼らに屍を預けると、早速解体作業が始まった。
遠くでクルシカがこちらを見ているのに気づき、笑顔で彼女に近づく。
「どうだい、見事な鹿だろう?」
「ええ。……結局、ヘンリク様が猟をなさることに?」
「ちょうど気分転換にもなるしね。一応、これでも色々考えたんだぜ。狩猟や採集以外にも、例えば近くの川で漁をするとか」
仮拠点の近くには川があり、今はそこから生活に必要な水を取っている。
ナマズやコイ、カワカマスに似た魚も棲んでいて、釣りができないかと考えた。
「でも、結局はやめたと。なにか不都合が?」
「いや、単純に釣具がなくてね」
「ああ……」
返しの付いた針やエサ、釣り竿はどうにかなっても、肝心の釣り糸がない。
ただの糸では強度不足で、魚が引いた時の張力が原因で切れてしまうのだ。
「それにしても、この短い間にずいぶん貴族らしくなられましたね」
「そうかい?」
「ええ。そういえば、近くの森からベリーやクルミを取ってくるよう指示されたとか」
「ああ、そうだよ。あの種類は帝都の近くでも見たことがある。毒はないから、人が食べても大丈夫だろう。クルミの実には油が多いから、貴重な栄養分にもなるだろうし」
「でも、それではダメだと」
「確かに、ベリーとクルミは腹の足しにはなる。だけどそれだけじゃ栄養が足りないし、身体の機能を維持できないんだ。少なくとも穀物や芋類、あるいは魚か肉がいる」
炭水化物、脂質、たんぱく質、無機質、ビタミン。
もちろん栄養バランスよりもカロリーが優先であることは言うまでもない。
だができることなら、これら五大栄養素をバランスよく取るのが一番だ。
そこまで言ったところで、僕は彼女が不安げな表情をしているのに気づいた。
「なんだクルシカ、僕のことを心配してくれているのか?」
「……狩りには危険がつきものです。心配していないと言えば、嘘になります」
僕も偏屈な自覚があるが、彼女もたいがい素直じゃないな。
「そんなに心配しないでくれよ、一応これでも僕は冒険者なんだ。いざとなれば魔法だって使えるんだから」
その言葉に、クルシカの眉がピクリと反応した。
「魔法? いま、魔法と言われましたか?」
「ん? ああ、言ったな」
「ヘンリク様は魔法をお使いになるのですか?」
「ああ、冒険者のころからよく使ってるよ」
「……といっても、初歩的なものでしょう?」
「いや、野生の獣を殺せるぐらいには強いものだ。あのシカだって――」
「そんな馬鹿な! 平民生まれの人物が、それほどまでに強力な魔法を使えるはずがありません」
そんなことを言われてもな。
彼女から訝しげな顔を向けられるのは、これが何度目だろうか。
僕が元いた地球とは違い、この世界には魔法がある。
多くの人が想像するようなやつだ。火の玉を出せたり、雷を落とせたりする。
とはいえ、この世界でも魔法使いはありふれた存在ではない。
しかし何の因果か、僕の場合は魔法が使えたのである。
これまで、自分が魔法が使えることをそこまで疑問には思わなかった。
だって地球には、魔術はなくてもファンタジー小説はある。
異世界に転生して魔法が使えると分かったら、そういうものだと思うだろう?
まあ確かに、冒険者仲間でも魔法を使う連中はあまり見なかったが……
「しかし、君は冒険譚を聞いていたんだろう? 僕が魔法を使って戦うことも、君は詩歌を聞いて知っていたはずじゃないのか?」
「詩人は話を盛るものだと、ヘンリク様も仰っていたでしょう。彼等が使う
……詩人連中め、一体どんな歌を作ったんだ?
「だが、僕が魔法を使っていたら変なのか? 確かに数は少ないが、冒険者の中にも魔法を使う人間はいたぞ」
「その方たちは恐らく貴族の生まれなのでしょう。貴族の次男や三男坊が冒険者に身を落とすのは、それほど珍しいことではありませんから」
「そうなのか? だが僕は貴族の生まれでも何でもないぞ」
「だからオカシイのですよ」
そう言ってクルシカは、僕に好奇の視線をぶつけてくる。
どうもこの世界の常識では、魔法を使えるのは貴族だけのようだ。
これまで旅を共にした仲間たちには、そんなことは教えてもらえなかったな。
あるいは余りに当たり前のことだから、わざわざ言う必要を感じなかったのか。
彼等の方も、僕を元貴族の坊っちゃんか何かだと思っていたのかもしれない。
「――ん、ちょっと待て。ってことは、クルシカ、君も魔法を使えるのか?」
「ええ、使えますが。……何の話です?」
「高台でどうやって井戸を掘るかって話だよ。単純に、魔法で水を生み出せばいいんじゃないか?」
「……!」
その手があったかという様子で、クルシカは驚いた表情をした。
実は飲用水は、魔法によっても作ることができる。
【
熟練の魔法使いなら、一度の詠唱で約40リットルの水を作ることができる。
そんな便利な魔法があるなら、どうしてこれまで思いつかなかったのかって?
これまで僕は、この地に魔法使いは一人しかいないと考えていた。
つまり、僕一人だと。
しかし貴族は時に領地を離れなければいけない。
だから最初、僕は【水生成の魔法】が使えないものだと決め付けていた。
僕が領地を離れた時に、この地で水不足が起きたら困るからだ。
だが魔法使いが二人以上いるのなら、話はまったく違ってくる。
僕がこの地を離れている間は、クルシカに代わってもらえばいいのだから。
それで水の問題は解決する。
「……いやあ、便利だな、魔法!」