「なんじゃ、不満か?」
ミレイ卿の笑顔に、僕は言いようのない圧を感じた。
この爺さん、いったい何を企んでいるんだ?
クルシカ嬢が不満かって? そりゃあ僕だって男だ、不満なワケはない。
これまで見た中でも、彼女の
たとえそれだけでも、結婚相手にこれ以上のものを求めることは出来ないだろう。
だから余計に怖いのだ。
『タダより高いものはない』というが、これでは余り都合が良すぎるではないか。
昔なら僕とて
けれども、今ではこの世界の常識を知っている。
貴族が平民相手に真正面から謝ることさえ、この世界では到底ありえないことだ。
なのにそのうえ、婚姻だって? とても理解の追いつく話ではなかった。
「お祖父様、ヘンリク様が固まっておられます。一つ一つ説明していかないと」
「む、そうか。そうかもしれんな」
「私がヘンリク様に説明いたしますわ」
この場面だけ切り取ってみると、ミレイ卿はただの
話を遮られて苛立つどころか、マイッタマイッタと笑みを浮かべる余裕すら見せている。
……不気味なこと、この上ない。
僕は知っている。貴族は貴族という生き物だということを。
彼らはたとえ実益を損なっても、家の面子を何より重視する。
彼らの行動を平民の理屈で推し量ってはいけないのだ。
「まずは先日の件について、改めてお礼を申し上げます。貴方に助けていただかなければ、私はとうに死んでいたでしょう」
「は、はい」
「それで、教会で執り行われた神聖術式ですが――失敗したのです」
「なるほど、失敗……失敗!?」
神聖魔法は聖職者が扱う特殊な魔法だ。
十分な血肉さえあれば、死を除くいかなる病も治すことができるという。
それが失敗とは、一体どういう事だろうか。
「はい、失敗です。その証に、これを」
彼女は服をずらして、白い
僕は思わず視線を逸らした。ミレイ卿が焦った声で言う。
「お、おい、クルシカや」
「お祖父様は黙っていてくださいまし。どうせその方、夫となる身の上。我が身を隠すことに一体どれだけの意味がありましょうか」
「しかし、まだそうなると決まったわけではないのじゃし……」
そうやらクルシカ嬢は、清楚な見た目に反して随分押しの強い女性であるようだ。
ミレイ卿をやり込めている所を見ても、よほど度胸が座っているに違いない。
「それに乙女の柔肌をお見せした時点で、この屋敷から帰す気はありませんし」
……同時に、何やら不穏な単語が聞こえた気もした。
が、突っ込んでも仕方のないことは無視に限る。
「さあヘンリク様、どうぞ」
「は、はあ。では失礼して」
それにしても、こうも堂々とされると逆にこっちの調子が狂うな。
独りでスラムを彷徨いていたというのも納得してしまう。
僕は促されるままに、彼女の白い肌をまじまじと見つめた。
なるほど腹部に注目すると、確かに傷跡が残っているように見える。
またその位置は、先日路地裏で刺された箇所と全く同じところに思えた。
「これは……傷跡ですか? またどうして?」
「司祭様も不思議がっておられました。なぜ傷跡が残ったのかと」
そう言って、クルシカは服の位置をもとに戻した。
帝都の司祭に選ばれるのは生涯をかけて神に仕え、かつ学識豊かな
彼らが見たことがないのなら、それは今までになかったのと同義なのだろう。
ところで今の話を聞いて、僕には一つ心当たりがあった。
「……私が思うに、血を止めた処置のせいかもしれません」
「処置?」
「傷口から、大量に血が流れ出ておられたものでしたから。お召しになっていたローブの裏張りを割き、傷口に詰め込みました。その時に神聖術にとって、何か不都合なことが起きたのやもしれません」
その言葉に、彼女は少し考え込む仕草をした。
「ふむ、そうでしたか。しかし、仮にこの傷がそれゆえに付いたものだとしても、あなたがいなければ私は死んでいたのでしょう?」
「あくまで、可能性の話ではありますが」
「後で聞いた話によれば、教会に運び込まれた時、私は生と死の境にいたそうです。命を救うため、かなり多くの血を使ったとも。ならばその処置がなければ、私は今ここにいなかったと考えるのが自然でしょう」
「あるいは、そうかもしれません」
「いいえ。実際、そうなのです。そうであれば、この傷は避けられないものであったと思いませんか?」
そう言って、クルシカはこちらに目配せしてくる。
その目配せに、僕は彼女の意図を感じた。
どうやら、僕に助け舟を出してくれているようにも思える。
なら、ここは素直になってそれに乗っておくことにしよう。
「おっしゃる通りです」
「――ですわよ、お祖父様?」
「うむ……」
ミレイ卿は怒りというのではないが、どこか苦々しい表情を見せていた。
おそらくは僕に、個人的に何か言いたいことがあったのかもしれない。
そしてクルシカ嬢は、それを庇い立てしてくれたのだろう。
……結婚か。先程は突拍子な提案のように思えたが、なにか理由があるに違いない。
そう思っていると、クルシカ嬢の方から先に話を切り出してきた。
「ヘンリク様は、フォルシン卿について御存じですか?」
「フォルシン卿? 大貴族にあらせられる、フォルシン卿ですか?」
「はい、私とフォルシン様との間では、十の頃に婚姻の約束を結んでいました」
結んでいた、か。少しだけ話が見えてきたぞ。
「――しかしこの間の一件があった後、約束は一方的に破棄されたのです」
それで、ようやく得心がいった。
帝国の貴族は願掛けの類を異常に気にする。
嫁入り前に傷物になった娘は、たといどんな家柄であろうと煙たがれるのだ。
つまりクルシカは、フォルシンという貴族の男に捨てられたのだろう。