今から十六年前、僕はこの世界に転生した。
にわかには信じがたい話だ。
だがこれまでに起こったことを総合すれば、そうとしか考えられない。
最初にこの世界に来た時は、自分の身に何が起きたのか理解出来なかったものだ。
最後に覚えている向こうでの記憶は、病院のベッドに寝かされていたこと。
ここは、二十一世紀の日本とはまるで違う異世界だった。
◆
その日、帝都に突然の雨が降った。
冒険者としてのいつもの仕事を終えて、身体はクタクタになっていた。
夕食の入った紙袋を手に携えて家への帰り道を急ぐ途中のことだった。
「イヤな雨だ」
僕は天を見上げて空模様を嘆いた。持っている紙袋が雨に濡れてしまう。
こんな日は早く帰ろうと思って、自宅への近道である裏通りを選ぶ。
すると都合の悪いことに、曲がり角の奥で人の争う声がした。
そちらの方へ意識を向ける。
雨粒が地面を打つ湿った土の臭いに混じって、ほのかに鉄の臭いがした。
血の臭いだ。
「おいおい、物騒だな……」
そう思ってソロリソロリと、路地裏の陰から何が起こっているのか覗き見る。
そこにはフードを被った誰かが倒れていた。
そいつは壁に背をもたれかけている。小柄で、生き死には分からない。
どうやら腹を刃物で刺されたらしく、大量の血が路上に流れ出していた。
それから、その側にもう二人。
おそらくその人間を刺した二人組の男、質の悪いチンピラだろうか。
片方が金目のものを漁り、片方が往来を見張っているようだ。
注意散漫な人物が危険な場所に立ち入り、強盗に襲われて命を落とす。
ここで見て見ぬふりをしたところで
厄介事に関わるのは誰でもゴメンだ。
どうしてなのか、僕はそれを見過ごす事ができなかった。
僕には、目の前の状況に対処するための力がある。
そして、その行動で助けられるかもしれない命がある。
ならば、目の前の人間を助けないという理由はどこにあるのだろうか?
否、助けなければならないのだ。
そのとき僕の心に浮かんだものは、甘っちょろい正義感などではない。
それよりはむしろ、義務感に近いものだ。
とにかく僕は、その場で何もしないことに耐えられなかったのである。
意を決して、僕は物陰に紙袋を置いた。
「何だおま――ぐぁっ!?」
たとえ生まれが現代日本であっても、十六年もこの世界で過ごして来たのだ。
鉄火場に対処するだけの知識と経験を、僕はすでに身につけていた。
素早い身のこなしで見張りの男に近づき、一発蹴りを入れて転ばせる。
男の方は突然現れた謎の影に驚いて、背中から地面に倒れた。
僕は倒れた男に向かってすかさず馬乗りになり、
転んで手を地につけた男は、その刃を防ぐことができなかった。
横一線で喉を斬られ、反射的に血が吹き出す首元を抑えようとする。
頭の中がハテナで埋まる前に、彼は頸動脈からの大量失血で意識を失った。
「おい、どうし――ヒィッ!?」
もう一人の男が、後ろの物音を不審に思って振り向く。
その瞬間彼の目に飛び込んできたのは、鮮血を吹き出して倒れている相棒。
そして、手に持つ短剣を血に染めた少年の姿だった。
彼はあまりの衝撃に腰を抜かし、濡れた地面の上にへたり込んでしまった。
「おい」
自分でも驚くほど低いドスの効いた声で、僕は男を見下ろし威圧した。
男は震える声で命乞いをする。
「な、なんだ。か、金か」
「お前の金に興味などない。そこに転がっている
僕は再び、ローブを羽織った人物を見やる。
驚いたことに、
……どこか裕福な家の出であろうか。
彼女がなぜこんな場所に立ち入ってしまったのか、それは分からない。
だが『好奇心は猫をも殺す』とは、まさにこのことだろう。
「あ、ああ。生意気なガキさ。独りでこんな場所へ来て、そのくせロクに警戒してなかったからな。近づくのは簡単だったよ」
「君は彼女を殺そうとしたのか、それとも殺人は本意でなかったのか」
「ヘ、ヘヘ。あいにく俺は、こんな小娘に興味はないんでね。顔だって見られてるし、金目のものを取ったらさっさと殺して、トンズラこくのが正解ってわけよ」
「そうか。ならば僕が同じことをしても、君は恨むまいね」
「えっ、ちょ――」
最後の言葉を言い終わらない間に、男を蹴り倒して馬乗りになる。
そして先ほどと同じ動作で、男の首を掻き切った。
二人の男が確実に死に至るよう、心臓、腎臓、そして肝臓の部位を的確に刺す。
しばらくして、目の前には二体の物言わぬ屍だけが残った。
「……はあ」
戦いと言うにはあまりに一方的な虐殺が終わったあと、ため息をつく。
人を殺した後にはいつも感じる心の痛みだ。
(これで良かったのか?)
他に方法はなかったのかという後悔。
この世界に来てから人殺しにも随分慣れたはずなのに、情けない。
(……今は、それどころじゃないか)
急いで倒れた少女の方に近づき、首元に手を当てる。
驚いたことに、かすかに脈が残っていた。
軽く傷口を見る。出血のわりに幸いにも急所は外れているようだ。
「この紋章は……」
不意に、少女の着ていたフードの刺繍に目がとまった。
紋章の識別には自信がある。ミヤセン家、押しも押されもせぬ大貴族だ。
とはいえ、少女はどう見ても使用人の風体ではない。
むしろ貴族の子女あたりに思える。
……改めて、どうしてこんなところにいるのか不思議で仕方なかった。
しかし、今はそんな事を気にしている余裕はない。
湧き出す疑問から逃れるように首を振って、これからどうするかを考えた。
(出血量が多すぎる。こういう時は、圧迫止血を……)
前世の地球で受けた救命講習を思い出し、止血帯を使って手早く処置を進める。
それから彼女の着ていた服の内張りを短剣で裂き、傷口に強く詰め込んだ。
多少不潔でも、運んでいる最中に出血多量で死ぬよりはマシだろう。
「……神聖魔法が使えたらな」
そんな恨み言さえ出てしまう、
神聖魔法の使い手なら、回復呪文で瞬く間に傷を塞ぐことができただろう。
あいにく僕には、その手の魔法の素養がなかった。
「おい、意識はあるか? 今助けるからな!」
怒鳴るような声に、少女は「ウン」と言ったように聞こえた。
だがその声はあまりに弱く、雨音の中にかすれて消えた。
(これは、急がないとまずいな)
そう思って彼女を背負い、僕は教会に向かって走り出す。
隠しておいたはずの紙袋は乞食に取られ、既に消えていた。
僕は思わず呟く。
「……今日は人生最悪の日だ」