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第33話

 中には大きな試験管があった。それも一本だけではない。十本、二十本……百本近くあるのではないだろうか、どちらにせよ数えきれない量の試験管が置かれていた。


「これは……」

「おや……。君たちがここに居るということは、外に居たエレーヌをやっつけたということか。流石は魔術師柊木香月とその妹だね」


 試験管を見つめるように立っていたのは白衣の男だった。

 白衣の男は香月の声を聞いて振り返る。


「僕は何をしていないけれどね。実際問題、エレーヌとやらをやっつけたのは僕の妹だよ」

「ほう。エレーヌを倒したのは妹の方だったか。普段は魔術をあまり使わないから実力が無いと考えられていたが、実際はその真逆。魔術を使わないのではなくて、使わないことによって実力を隠していたか。流石だ」


 白衣の男はゆっくりとこちらに振り向くと、一歩前へ踏み出す。


「僕の名前はハイド・クロワース。覚えておいてくれたまえよ、僕は君と出会うのを待っていた。君ほどの若くて優秀な魔術師に一度会ってみたくてね」

「ハイド……ねえ。ジキルとハイドって話を聞いたことがあるが、博士ならジキルの方じゃないのか?」

「それをあえて外しているわけだよ。ジキルではなくハイド。ハイドの方だよ。ジキルなんて知らないね。僕はハイドだ! ハイド・クロワースにほかならない!」

「別に否定はしていない。だが、ここはいったい……」

「ここかい? ああ、君たちは知ってか知らずかここにやってきたということだね! ここは『精神の部屋』だ。何故ここがそう呼ばれているかは知らないだろうねえ。知っているのかもしれないけれどねえ」

「知っている。コンパイルキューブに精神力を供給し続けているのだろう?」

「ほう! 知っていたか。……でも、これは未だ第一歩に過ぎない。考えてみろ、未だこれは足りないと思わないか?」

「足りない、だと?」

「そうだよ。こんなものじゃ未だ終わらない。終わらせてたまるか。未だ何も始まっていないし、終わってもいない。これは計画の前段階に過ぎないのだから。『失敗は終わりを意味し、負けは死を意味する』のだよ」

「は?」


 眼鏡の位置を直し、ハイドは続ける。


「いや、どこかの世界に住んでいる、孤高の科学者の戯言だよ。戯言と言うにも烏滸がましいことだけれどね。実際には僕は負けることを知らない。負けたくないからね」

「それじゃ、今は退くか? 素直に負けを認めない、ということならば、いったいどうするつもりだ?」

「君と今戦っても、何の利益が得られない。だから、ここは退くよ。どうせ僕はここの管轄では無い。所属でも無いし。所詮僕は莫大な金と交換条件にこれを引き受けただけに過ぎないのだから」

「だから、逃げる――と?」

「ああ。充分な実験結果を得られた。これ以上争う必要も無い。いずれは、争うことになるかもしれないが、それは今では無い」


 そして、男は香月にあるものを手渡した。

 一つは香月の使っていたコンパイルキューブ。

 そしてもう一つはコンパイルキューブより一回り小さいスイッチのようなものだった。


「君のコンパイルキューブだ。あとはスイッチを押せば拘束は解かれ、今ここで眠っている人間も起きることだろう。中身は冷凍保存と同じ状態だから全員生きている。仮死状態、とでも言えばいいだろうか」


 香月たちを通り過ぎ、扉の前で立ち止まるハイド。


「待てよ。……お前はいったい、何を目的にこれを行った? それだけを聞かせてほしい」

「目的、ね……」


 ハイドは溜息を吐く。


「強いて言うなら、世界の観察……かな?」

「何だと?」

「そうだ、世界の観察だよ。世界の強度ともいえばいいかな……。世界の強度がどうなっているのか、世界がいったいどうなっていくのか、世界をどうすればいいのか、それについて考えているということだ。学んでいる、と言ってもいい。研究者は一生学徒だからね。学ぶことは非常に多い。なにせ、この世界だぞ? 世界は何十億人と人間が住んでおり、それ以外の生き物も莫大な数が住んでいる。その世界を、研究するということは――とても面白い。人間の一生は……確か八十年だったか? それくらいあっても足りないだろうね。その数十倍は無いと無理かもしれない。それでも、研究をしている間にさらに新しい知識は出てくる。堂々巡りになってしまうことは、確定だけれどね」


 香月は何も言わなかった。

 それを見てハイドは一笑に付し――部屋を後にした。

 残された香月たちは、香月以外の人間がその視線を香月に集中させた。

 香月はコンパイルキューブが自分のものであるかを確認。そして残されたスイッチを確認していた。


「……これを押せば、あの巨大なコンパイルキューブは停止するのか?」

「あのハイドは、そう言っていましたね」


 答えたのは春歌だった。

 そして香月は一瞬考えたが――スイッチを押した。

 躊躇うこともなく。

 ハイドという科学者の言うことを、信じて。



◇◇◇



 その頃、ユウと増山敬一郎の戦い。

 ユウは佳境に立たされていた。精神力を使い過ぎたのだ。


「このままでは……精神がもたない……」


 ユウは一つの組織のトップとなっている。だから、精神力も普通の魔術師よりは多い。それこそ鍛えているからだ。

 だが、そのユウが追いつめられているのだ。当然だ。相手は百人分の精神力を行使できるコンパイルキューブ、それに一人で立ち向かうことが間違っている。

 それはユウも解っていた。ただ時間稼ぎになればいいと――そう思っていたのだ。


(香月は……間に合っただろうか……)


 瓦礫に腰を預けて、彼女は思った。

 香月がコンパイルキューブのシステムを破壊しない限り、増山敬一郎はその力を発揮し続ける。だから早急にシステムを破壊せねばならない。


「柊木香月は優秀な魔術師だよ。だが、少年だからか、まだ甘いところがある。致し方ないことかもしれない。少年は成長するうえで大人になり、そして精神も成長する。あの時点で優秀な魔術師となるほどの精神力を保持していることは、はっきり言って『異常』だ。両親があのすばらしい魔術師夫婦だったからかもしれないが」

「……ほんとうに、よく喋る男だ」

「君は嬲り殺しておきたかったからね。前から気に入らなかったのだよ」


 増山敬一郎は一歩、また一歩近づいて、ユウの前に立った。ユウを見下ろす形となって、増山敬一郎は立っていた。

 そして、増山敬一郎はユウの頬を叩いた。彼女の頬が赤くなる。


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