「確かに彼は昔から落ち着いていた。私が彼ときちんと話をするようになったのは……あの『事故』が起きてから暫く経ったときのことだった」
「……あの事故はそれ程までにひどいものでしたからね」
彼女も彼女の親族も、あの事故で何かを失った訳ではない。だからラジオやテレビ、或いはインターネットで得た情報からしか語ることは出来ない。
しかし香月と果は、それぞれ両親と親戚を失っている。心に負った痛みは、計り知れないものだろう。
だが、たとえ彼女がそう思っても――それはただの慰めにしかならない。
そのような言葉をかけていいのだろうか? 彼女はそんなことを考えていた。
「私たちのことを、気にかけなくてもいい。彼も私も、少しずつではあるけれど、あの事故を乗り越えようとしつつあるのだから」
香月も果も、乗り越えようとしている。
春歌は考えた。自分も父親が亡くなった。その衝撃を、そのショックを……本当に『乗り越えた』といえるのだろうか?
時折、不安になって理由もなく涙することがあった。普通に考えればそれは、未だ乗り越えられていない証なのではないだろうか?
「大丈夫」
果は春歌を抱き締めた。
彼女は優しくて暖かい抱擁を受ける。受け入れる。
「あなたは大丈夫。一人だけで抱え込まなくていい。あなたのお父さんだって、きっとそう思っているはず」
「そう……ですか?」
「ええ」
果は笑顔で春歌の方を見つめる。
それと同時に、彼女の堰がゆっくりと崩壊していく。
一度皹が入ってしまえば、もう崩壊は止まらない。
「うわぁぁぁん……」
涙が、涙が止まらない。
果の白衣を濡らしてしまう程に。
そんな春歌に対して果は、優しく頭を撫でるだけだった。
涙が収まり、ティッシュで涙を拭う。すっかり果の白衣は濡れてしまったので洗濯に出すこととした。
「すいません、本当に……」
「何が? あぁ、もしかして白衣のこと?」
少しだけ顔を赤らめて、恥ずかしそうに頷く春歌。
「それなら特に問題ないよ。こういうことは職業上よくあることだからねぇ……。手術が怖くて受けたくないと駄々を捏ねる子供を何とかさせたり、殺してくれとせがむ患者を宥めたり……。さながら私は病院の交渉人みたくなってしまったよ。最近は面倒臭い患者さんを全部私の方に丸投げだからねぇ……。そういう手当てくらい出して欲しいものだよ」
思った以上に病院にもそのような不条理があるのだ。そう思った春歌だった。
◇◇◇
夕方になっても未だ図書館に居た香月。彼は休憩ということで、カフェオレを飲んでいた。休憩コーナーにある自動販売機で売っていた、百三十円の缶飲料だ。
八冊の文献に追加して、その文献を読み解くための知識を得るために二十一冊の文献を読み解いた。そのため現時点でも未だ半分しか読み進めていない。
「これは思ったより骨が折れる……な」
時間がかかる作業だということは彼も理解していた。しかしながら、ここまで時間がかかってしまうのは少々予想の範疇を越えていた。
カフェオレを飲み干し、テーブルに置く。直ぐに開いたままになっている文献の解読に取りかかった。
文献解読は七割程終了している。しかしこの状態でも彼の仮説には充分合致している。
出来ることならばその仮説は合致して欲しくなかった。ただの思い違いならばいいと思っていた。
しかし現実はそう甘くない。
「何で……こういう時だけ僕の不安は的中するんだ……!」
思わず図書館で大声を出してしまいそうになったが、すんでのところでそれを抑え込む。
彼が言っているのは、この図書館に文献を漁りに来た理由にもなっている。ある仮説を『否定』するためだった。
その仮説を肯定してしまえば、彼の今までが、根幹が覆されかねない。だから、出来ることならばただの机上の空論であって欲しかった。
しかしそれは呆気なく打ち砕かれた。そんな希望等無い――そう語りかけるように。
「『深海の民』が騒がれるようになったのは十年前から、そして木崎湾の飛行機事故もまた十年前だった……。これから導き出せるのは……」
――深海の民と木崎湾飛行機事故には何らかの因果関係がある。
「まさかあいつはこれを考えて……? いや、それは考えすぎだ。幾ら何でもそんなことは有り得ない……」
本当にそう言えるのだろうか?
彼の脳内で誰かが語る。
信じたくないと思っていても、その可能性がある以上突き止めなくてはならない。
……どちらにせよ、テーブルに散乱した資料をどうにかしないと話にならないのだが。
◇◇◇
片付けを終えると時刻は午後五時を回っていた。
「あぁ。だから今から春歌を迎えに行く。準備をしておいてくれ」
香月は電話をしていた。
「……安全面を考えればこちらに泊まったほうが安心だ。え? 何を馬鹿なことを……。そんなことをするわけが無いだろう。客人として丁重におもてなしするまでだ」
首を傾げながら、通話を終了する。
「……ったく、どうして『丁重におもてなしする』と言ったのに怒られなくてはならないのか。甚だ疑問だよ」
そんなことを呟きながら、病院へと向かっていた――その時だった。
「ちょっといいかな」
声をかけられ、呼び止められたのは香月の数歩前を歩くスーツ姿の男だった。普通に見ればただの帰宅途中のサラリーマンにしか見えない。
だが彼は、そこに何処か違和感を覚えた。
「どうしたかね。何か気になったことでも?」
踵を返したサラリーマンは右手をポケットに突っ込みながら訊ねた。
「……気になりたくなくても気になっちまうものなのだよ、魔力のオーラというものは」
ぴくり、とサラリーマンの眉が動いたのを彼は見逃さなかった。
右手をポケットに突っ込んだまま、サラリーマンは言った。
「魔力、と言われてもまったく解らないのだが。最近の若い者は……」
「しらばっくれても無駄だ。だったら右手に隠しているものを見せてみろ。恐らく、というか確実にそれはコンパイルキューブのはずだ」