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第11話 近衛騎士団長の懸念

「あの姫君は皇太子殿下を随分と気に入ったようですね」


 皇太子殿下が己の執務室に引っ込んでから、シグルドは執務室のドアの前でハンネスにそう語りかけました。

 ハンネスは自慢の口ひげをこちょこちょとさせて「ふむ」と言ってからにっこりと笑顔を浮かべます。どうやら、ハンネスもディルアンディア姫の気持ちには気付いていたようで、シグルドはちょっとばかりため息を吐いてしまいました。

 正直に言えば、世の女性たちが少しだけでも皇太子殿下と会話をすればきっと彼の魅力に気付くだろうとは、シグルドも思ってはおりました。

 確かに皇太子殿下は泣き虫で、弱虫で、初対面の人と話すのは苦手だしパーティだって未だに大嫌いで、皇太子としては「なんでこんな人が選ばれたんだ?」と思ってしまうくらいには駄目な人です。

 しかし長身で均整の取れた鍛えられた身体に低いけれど通りの良い声は人に声を聞かせますし、一度「皇太子モード」になれば頭も切れる有能な指揮官であるのは間違いがありません。

 「皇太子モード」が続くように幼少期からビシバシ皇太子を鍛えてきたシグルドですが、彼が「皇太子殿下」の時に接触した女性が漏れなく彼に恋したという事を、実は知っています。

 しかし「皇太子モード」はあくまでも外面そとづらですので長続きするものでもなく、国家として重要なパーティであったとしても1時間保てばいい方です。

 今だって、姫君たちとお話をするのは一日に長くて30分ほど。

 毎日知らない女性が同じ砦に居るという事で夜に熟睡出来なくなった上に精神力の回復方法のない皇太子殿下にとってはそれが限界で、昨日はブルーラビットの毛布を丸めて抱き込んだ状態で床で寝落ちていたほどです。

 あの皇太子殿下に隣国一の美女のお相手は負担が大きく、しかもその彼女が「皇太子殿下」に恋をしたのだとしたら――シグルドとしては面白くありません。

 皇太子殿下は魅力的な方です。

 しかし幼い頃から彼を見守ってきたシグルドにとっては情けなくてしょーもなくてチキンで泣き虫でポンコツなリューグ殿下こそが真実の姿であり、「皇太子殿下」は作られた姿でしかないのです。

「どうせあの姫君も、夢が壊れたら殿下を蛇蝎の如く嫌うに決まっている」

「それは、どうですかなぁ。閣下」

「貴方はそうは思わないと? ハンネス」

「さぁ。この老骨にはお若い方々の機微は難しすぎますからなぁ」

 はっはっはっと笑うこの執事長も、あの姫君が「皇太子殿下」だけを求めて夢を見ていたのだとしたらきっと殿下から遠ざけているだろうと、シグルドは思っています。

 何しろこのハンネス執事長はかつて皇帝陛下の【耳】として帝国中を暗躍した男でありますから、非力な姫君の一人や二人誰にも知られずに片付けるのは簡単なことでしょう。

 この【皇帝陛下の耳】の足を奪い皇都に釘付けにして手から毒の刃を奪い取ったのがあのポンコツ殿下なのですから、彼は何があっても殿下の敵を生かしてはおかないはずです。

 敵じゃなくて良かった人というのはこういう人の事を言うのだろうなと、シグルドは常々思っておりました。

「そういえば閣下、あの部屋にはもう?」

「……あぁ、そういえばまだですね。あの姫がウロウロしていたので、中々連れ出せなくて」

「左様ですか。それでは、わたくしは姫君たちにこの砦で最後のお茶をお誘いして参りましょう」

「頼みます」

 絶対に見られないように。

 ハンネスの方を一瞥もせずに、しかし彼には確実に聞き取れるくらいの声の大きさで呟いたシグルドは、彼が軽く顎を引いて頷いたのを確認してから執務室のドアを叩きます。

 その頃には執事長の姿はシグルドの隣にも廊下の先にもどこにもなく、ただほんの少しカーペットに「誰かが居た」痕跡が残っているだけのものでした。

「殿下。20分後にあの部屋へ行きますよ」

「だ、大丈夫なのか?」

「執事長が姫たちをお茶にお誘いするそうです。行くならその時だけです」

「わ、わわかったっ」

 そっと執務室のドアを開けば、一体いつの間にどこから持ってきたのやら分からないブルーラビットの毛布を全身にぐるぐるに巻き付けた皇太子殿下が半泣きで書類に判子を捺している所でした。

 昨日から彼の仕事といえばもっぱらこれです。同じ帝国内といえど武力を持つ騎士団や皇族が移動するのにはそれ相応の手続きというものがあり、勿論そこには皇族しか見てはいけない情報だって載っているのです。

 皇太子殿下は、その書類に判子を捺すだけの仕事が大嫌いでした。インクを染みさせた布にポンと判子を乗せて、判子を紙にポンと捺し、書類をどけて次の書類を読みながらまた判子をポンと捺す。

 つまりは、退屈なのです。だからってブルーラビットの毛布をもってきたらインクで汚れてしまうのでは? とシグルドはちょっと心配でしたが、殿下がやりやすいように仕事をするのが一番だと無視をする事にしました。

 だってなんか、そう、いつものことですから。



 それからぴったり20分後。貧相な平民っぽい服にボロボロの薄汚れた灰色の布をかぶって、シグルドと殿下は執務室を出ました。

 出るのも、執務室の中にある隠し扉からです。この隠し扉もその先の廊下も真っ暗でジメジメしていて殿下はとっても苦手で、毎回「ヒンッ」と半泣きになってしまうのですが、これから向かう先の事を考えると通らないわけにもいかないのでシグルドの背中にへばりついて我慢をします。

 たまに「歩きにくい」と肘鉄をされますが、特に痛くはないので本気ではないのだという事を、殿下は知っているのです。

 その我慢もほんの数分ほど。ようやく隠し通路から外に出た先には、この砦の中でも特に頑丈に作られている一階しかない四角い建物がありました。

 真っ白な布を4つに区切るような赤い十字ラインが入っているその建物はこの砦の中でも一際広い敷地を使っていて、周囲に出来るだけ緑を使って「非戦マーク」を屋根と扉に大きく描いています。

 この白い布を四角く区切る赤いラインこそが「非戦マーク」と呼ばれているマークであり、このマークが扉についている建物には戦争中であっても攻め入ってはいけないのだと皇太子が知ったのは、まだ幼い頃でした。

 皇都のあちこちにこのマークの入っている建物があってとっても不思議で、皇城にも大きな建物にこのマークが入っておりましたのでとっても不思議で、皇帝陛下に伺ったのです。

 この「非戦マーク」は、怪我人が居る施設につけられるものであること。

 例え敵国の騎士で、それが戦争中であってもこのマークがついている建物は狙ってはいけないということ。

 そしてこの施設を利用するのはあくまでも「被害者」であり、戦争の中心となる王族・皇族はここに逃げ込んではいけないということ。

 なんで逃げ込んではいけないのかと、戦争がとっても怖かった当時の皇太子は泣きながら父王に問いましたが、父王の返答は一貫して、いつだって同じでした。


「民を守るための場所を、民を護るべき皇族が奪ってはならない」


 戦争と聞くと怖くて怖くてすぐに泣いてしまっていた皇太子殿下も、その言葉には皇族の矜持が感じられてすぐに泣き止んだものでした。

 あの日から、あのマークと施設は皇太子殿下にとってはとても大事なある種神聖なものになったのです。

 だから、でしょうか。

 皇太子といういざとなったら父王よりも先に武器を手に取り前に出て戦うべき立場であるリューグ殿下に、こんな【能力】が開花したのは。

「こんにちわ。御用聞きに参りました」

「おぉ、施術士の兄さん。待ってたぜ!」

「よかった、明日には皇都に戻るんだ」

「おぉい、骨折してるヤツ居ただろ。運んできてやれ」

 マントで出来るだけ顔を隠した殿下が扉を開くと、中に居た騎士たちがワッと明るい顔になりました。

 ここに居るのは、この砦の本来の利用目的である魔獣狩りで負傷した者やこの砦の修繕の際に負傷した者、そして先日のビナギア兵との戦闘で傷を負った者です。

 殿下は、この施設にやってくると例外なく入ってきた扉の右手一個目のベッドの怪我人から治療を始めます。それが分かっているから、この部屋に居る怪我人たちも自然と重症者が最初に治療を受けられるようにベッドを並べているのです。

 最初の者の魔獣との戦いで負った胸の傷は深く、しかしじわりと血が滲んでいる程度におさまっているので殿下も安心して彼の手を握ります。

 彼が怪我をした瞬間にすぐさま助け起こすふりをしながら治療をしたのが、上手く働いてくれているようで安心しました。

 そう、皇太子殿下の「まったく皇太子らしくない」王族の【能力】。

 それは、人の傷を癒やすことの出来る【治癒】の力でした。

 悪魔のような外見に、真逆の性質にも思える【治癒】の力。この【能力】が花開いた時、目の当たりにした貴族の中には「悪魔皇子が人の血を啜っている」と笑った者もありました。

 リューグ殿下についた「悪魔」の名の根源がこの【治癒】の力であり、血塗れの人を見てもまったく恐れず返り血を浴びながら怪我人を抱き寄せるその姿を見てつけられたものであることを、シグルドは知っています。

「オレがここに入ると迷惑になるから」と、怪我人の治療をするために平民の格好をして顔を隠しながら人目を恐れてやってくる殿下の心の傷を、この部屋に長く勤めているメイドたちももう、知っているのです。


 果たして彼女は、「皇太子殿下」に焦がれる彼女は、ボロボロの服を着て返り血で手や服を汚しながら怪我人の看病をする彼のこんなの姿を受け入れることが出来るのでしょうか。

 理想と違うと、格好良くないと傷つけやしないでしょうか。

 皇都へ戻るまであと1日。シグルドの懸念は、ビナギアとユルグフェラーの関係性ではなく最早そればかりになっていました。

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