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第8話 公爵令嬢の朝支度

 日が昇りカーテンにうっすらと明かりが灯り始めると、ディルアンディアはやや寝不足気味だというのにパッと目を開いて目を覚ましました。

 ディルアンディアは毎日のように弟たちや父の訓練を見守っていたので、その習慣のようなものです。時には一緒に訓練場を走るくらいはさせてもらっていたので無意識にその準備を始めようとしてしまいましたが、目が覚めたその部屋は見覚えのない部屋で、いつもメイドを呼ぶベルもすぐ近くにはありません。

 そうしてやっと、ディルアンディアは自分が居る場所のことを思い出しました。

 ベッドから足を出せばひんやり冷たい空気が部屋の中に漂っており、しかも少し筋肉痛のようで驚きます。走るのには慣れていたつもりですが、やはりドレスとヒールで走るのと運動着で走るのでは使う筋肉が違ったのでしょう。

 自分がこんなでは母親はもっと疲れているかもしれないとそっと母の眠るベッドを覗くと、わずかばかり涙の痕跡の残る寝顔ですやすやと眠る母がそこに居ました。

 早いうちに眠りについたと思っていたルーナルア公爵夫人ですが、やはり痛めた胸は苦しかったのでしょう。

 その寝顔を見て胸が押しつぶされるような心地になったディルアンディアは、自分がしっかりしなければならぬと決意を新たにしながら己にあてがわれたベッドに座りました。

 メイドのキキと乳母のマデラは別の部屋に案内されておりましたので、この部屋には居ません。

 何より、彼女たちは着の身着のままで逃げてきてしまったものですから着替えなんか勿論持ってはいないのです。ディルアンディアなんかは靴もなくしてしまったので、このままでは変わりにと頂いたぺたんこの靴で歩かなければいけなくなります。

 それは凄くラッキー……いえ、淑女としては困ってしまいます。

 さてどうしようと考え始めたディルアンディアは、しかし程なく控えめにノックされた扉をパッと見ました。

「侍女のエルベラで御座います。お目覚めで御座いましょうか」

「はい。あ、お母様はまだ……」

「入室の許可を頂けますか?」

「勿論です」

 少しばかり緊張しながら入室の許可を出すと、背筋のシャンと伸びたマデラと同じくらいの年齢の女性が複数人のメイドを連れて部屋に入ってきました。

 その中にはキキとマデラの姿もあり、なんだか少し安心してしまいます。彼女たちは、すっかり綺麗なメイド服に着替えていたものですから、良くしていただいたのだとわかったからです。

「おはようございます、エンデア公爵令嬢。暖炉に火を入れさせて頂きます」

「嬉しいわ。山の近くはとても寒いのね」

「えぇ。今日も朝から雪が降って御座います。ですので、令嬢と夫人には、こちらのお着替えをお持ちさせて頂きました」

 エルベラの指示で即座に暖炉に火を入れに走るメイドたちに、ディルアンディアはとてもホッとしました。

 母が目覚める気配もあるので、これなら母はあたたかな部屋で着替える事が出来るでしょう。夫を亡くしたかもしれない夫人に、この寒さは少しばかり堪えるはずです。

 同じことを考えていたのかキキとマデラも笑顔を浮かべていて、2人の手でディルアンディアとルーナルア夫人のドレスが運ばれてきました。

 まさかこんな戦砦にドレスがあるとは思っていなかったディルアンディアはとても驚きましたが、よく見ればそれは防寒を第一にと考えられた厚手のドレスのようで、パーティ用のそれとは少しばかり趣が違っているようです。

 ルーナルア夫人には薄い紫色のドレスを。

 そしてディルアンディアには明るい赤色のドレスが差し出されました。

 明らかにオーダーメイドの、しっかりとしたドレスです。ディルアンディアがおどろいでエルベラを見ると、エルベラはにっこりと微笑んで、

「この砦に保管されているドレスで御座います。一度別の方が腕を通したものですが、綺麗に整えて御座います」

「別の方が……ど、どなたがお使いになったものでしょうか?」

「そちらの紫のドレスはアルファネア皇妃様が、こちらの赤のものはベルタ皇女殿下が御召しになりました」

 その名前を聞いて、さっきまで眠っていたルーネルア夫人もディルアンディア姫も、ピタリと動きを止めてしまいました。

 アルファネア皇妃とベルタ皇女。つまりはリューグ皇太子殿下の養母妃様と腹違いの姉君のドレスです。

 それはこのユルグフェラーにおいては最も尊き女性お二人のドレスという事であり、隣国とはいえユルグフェラーから別れた小国の貴族が腕を通していいものとは思えません。

 ルーナルア夫人もベッドの上でオロオロとしておりますし、ドレスを持っているキキとマデラは何も言わずに尊いものを持つようにドレスを掲げたまま。

「あの……」

「皇太子殿下が是非にと。このようなお下がりで申し訳ないが、とも」

「申し訳ないなんてとんでもありません!」

「王都まではこのようなもので我慢して頂きたい、ともおっしゃっておりました」

「我慢だなんて!」

 きゃー、と思わず悲鳴をあげながらびっくりする母子2人に、エルベラはにっこりと笑いました。

 それはこちらを安心させるような、どこか懐かしさのある笑顔です。多分、マデラと似ているのだろうとディルアンディアは思いました。

 だって、マデラもこちらをあやす時にあんな風にあえて大きく笑顔を作ってくれたものですから、とってもよく似ています。

「皇妃様も皇女殿下も年に1回着るかどうかのドレスで御座います。着て下さった方がドレスも喜びますよ」

「よ、よろしいのでしょうか……」

「寝間着で朝食会においでになる方が、皇太子殿下は驚いてしまわれますよ」

 ふふふ、と笑ってから、エルベラは暖炉の火がついているのを確認してからメイドたちにディルアンディアと夫人の着替えを命じました。

 こうなっては、2人はただ従うしかありません。おずおずとベッドを降りて身を任せると、メイドたちがササッと2人の身支度に入ってくれました。

 その間、ディルアンディアはメイドたちから様々な事を聞きました。

 ビナギアではまだコルセットをつけるのが主流ですがユルグフェラーではすでにコルセットをつけないドレスが主流である事。

 皇妃殿下と皇女様は自分の持っているアクセサリーやドレスのうち他の人が似合うと思ったものは積極的に差し上げてしまう方だという事。

 それから、それでもお二人は皇帝陛下や皇子殿下たちから貰ったものは大事に大事にとっておく方だという事。

 さらには気に入ったドレスばかり御召しになるのでドレス職人や宝石職人が困ってしまっているという事までも、面白おかしく話してくれるのです。

 その話はディルアンディアは知らなかったことばっかりで、帝国の内情や尊き女性たちのリアルを知る事のできる楽しいものでした。

 気を使って下さっているんだわ、と、ディルアンディアはすぐに気付きます。

 何しろディルアンディアたちも昨日はボロボロでドロドロだったものですから、ユルグフェラーのメイドたちもびっくりしたに違いありません。

 急いでお湯を容易して下さった事や寝間着を貸して下さった事だけでも感謝しかなかったのにまさかここまで気遣ってくれるなんて、と、ディルアンディアはつい泣きそうになってしまいます。

 優しかったビナギアの国王陛下や父たちを思い出してしまったからです。

 何故、何故、こんな事になってしまったのか、ディルアンディアにはわかりません。

 こんなにも優しくしてくれるユルグフェラーの方々を敵にして、何故国王陛下を殺した事にしたいのか、わからないのです。

 彼女たちと出会うならこんな形ではなく、もっと胸を張れる場面で出会いたかったとも、思います。きっとちゃんと整えていれば、ディルアンディアは国の中では一番美しかったはずなのです。

「姫様。公爵夫人。今はお辛いでしょうがきっと皇太子殿下や皇帝陛下がお力になって下さいます。ですのでどうか、お気を落とさずに居て下さいまし」

「……ありがとうございます、エルベラ」

「さぁさ。お化粧をして朝食へ参りましょう。お二人の美しい姿を見て驚く皇太子殿下のお顔が楽しみですわ」

「ふふ……そうだといいのですけど」

 ようやく薄く笑顔を浮かべるルーナルアに、ディルアンディアはホッと安堵の息を落としました。昨日からずっと落ち込んだ顔をしていた母にも、やはり笑顔が一番似合います。

 ただ朝食をご一緒するだけと言っても、相手は皇太子殿下です。出来る限り自分の最高の美しさを、そして出来る限り失礼のない姿を見せたいと、ディルアンディアは思っていました。

 化粧品も、ドレスも、アクセサリーも、どれも全て借り物ですが、だからこそお借りした物に負けないように格好良く。

 そう決めて、コルセットなどなくても背筋を伸ばして真っ直ぐに前を見ます。

 こんなにもドキドキとしながらお食事をいただきにいくのはいつぶりのことでしょうか。ビナギアでは王宮の方々も親戚と言えたのでこんなにもドキドキしたことなんで本当に久しぶりです。

 粗相のないように。そう思いながら、ディルアンディアはメイドたちのエスコートを受けてお食事をする広間へ向かいます。

 そこに用意されていたお食事もまた、急に人数が増えたとは思えない美味しそうなものばかりでディルアンディアはつい自分のお腹をそっと抑えてしまいました。

 朝に走ったり父たちの訓練を見守る習慣があるディルアンディアでしたので、朝はついついお腹が空いてしまいます。

 焼き立ての良い香りのバゲットに、美味しそうなクリームのスープ。ただそれだけでも美味しそうなのに、胃に負担にならないようにするためかソテーされたお魚まであるのです。

 こんな山間部でお魚を食べる事が出来るなんてと、ディルアンディアは驚きました。子供の頃にどうしてもお魚を食べたいと言って父に「山の近くではお魚は難しいんだよ」とたしなめられたのを思い出します。帝国では山間部でもお魚を食べるのは当たり前なのでしょうか。羨ましい、と、ディルアンディアはつい思ってしまいました。

 母ルーナルアは、テーブルの上のお食事を凝視する娘に内心はヒヤヒヤです。娘が朝にお腹を減らしているのを知っている公爵夫人は、皇太子殿下が来るのを待たずに手を付けてしまうのではないかと危惧していたのです。

 勿論ディルアンディアはもう立派な淑女ですのでそんな事はしませんが、お腹が鳴らないかは正直ちょっと、自分でも心配ではありました。


「遅くなって申し訳ない。いただくとしようか」


 しかしすぐ、そんなディルアンディアの懸念も消し飛びました。

 なんと皇太子殿下が、あの皇太子殿下が、仮面を付けてお食事に現れたのです。

 勿論ディルアンディアは昨夜皇太子殿下の素顔をこれでもかというくらい脳に焼き付けておりますので、今更仮面をつけておられても影武者と間違えるなんてことはいたしません。

 ですが、

 ですが、

 市政で流行っている少女小説の「仮面の騎士の英雄譚」を愛読しているディルアンディアにとっては、空腹を瞬時に忘れるには十分なお姿だったのでした。

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