「……我々はビナギア王国への敵意はない。そもそもが、貴方たちを攻撃する意味もない」
リューグ皇子は、しばしの間をおいた後に何とか言葉を絞り出しました。
わかっていた事でも、いざ眼の前で突きつけられるとこんなにも辛いのだという事を久しぶりに実感した心地でした。
皇太子という地位に立つ事が決まった時も、リューグ皇子を嫌う者は何か呪いでも使ったんじゃないかと噂し、悪魔の力を使って第一皇子に呪いをかけたのだろうと正面切って言ってくる者も居りました。
勿論全て根も葉もない噂でしたし、悪魔だとか呪いだとかはそもそも子供の頃から散々に脅かされてきたので皇子は大嫌いなのです。
それでも散々嫌なことを言われてきたのはこの赤い目と黒い髪のせいだとリューグ皇子はわかっています。
今だって、ディルアンディア姫は皇子から少しでも目を逸らそうとしていて、リューグ皇子が彼女を見ると大慌てで視線を外してしまいます。
それを見て、皇子は視線を伏せて彼女を出来るだけ見ないようにしようと決めました。
あんまり驚かしてしまうのはあまりにも気の毒です。
「貴方がたを助けに入ったのは、国王陛下に万一の際の助力を求められていた事と……そちらに送っていた間者から我がユルグフェラーの鎧らしき姿が確認されたという報を受けたためです。我々は何より貴方がたの安全を重視していますし……今後貴方がたがビナギアに戻りたいと仰るのでしたら、王国の様子を確認してからと考えています」
「ま、まぁ。国王陛下に……?」
「……絶世の美姫ディルアンディアの名は、国王陛下だけでなくビナギアの者からよく聞いていましたから」
まぁ、と驚いたように目を丸くしてから頬を赤くするディルアンディア姫のなんと可憐な事でしょう。睫毛も髪と同じように色が薄く、長く、目を伏せても紫色の瞳の色が見えるような美しさです。
お茶のカップを持つ手の指先も、整えられた爪も、ダルザー国王が話していたように「国一番の美女」と称するのに間違いのない繊細さと美しさです。
まったく自分とは真逆の存在だと、リューグ皇子は思いました。
その外見から疎まれ続け皇帝陛下にも第一皇子にも「仮面をつけるように」とか「戦場では兜を忘れるな」と言われ続けていた自分とはまるで違うその存在が、皇子には眩しくてたまりませんでした。
実際彼女は光を内側から発しているような美しさがありました。
ハッキリとした意志も、真っ直ぐな瞳も、死者を見ても慄かない姿勢も、大将軍の娘として相応しいと思わせる存在感です。
皇太子殿下は、もうディルアンディア姫を真っ直ぐ見る事なんかは出来なくなっておりました。
そんな事はまったく気付いていないディルアンディア姫は、俯き加減の皇太子殿下の憂いを帯びた瞳がキラキラしていて美しいと胸を高鳴らせておりました。
ビナギア国内で言えばディルアンディア姫の弟2人は父親似で背が高く、それで居て母似の繊細な美しさもあって国中の娘たちの憧れの的でしたし、ダルザー王の嫡子である王太子ジョルファンはまだ若いながらも将来性に期待のできる頼もしい若者でありました。
しかし、リューグ殿下のように逞しさと美しさを兼ね揃えた男はそうそう居なかったと、ディルアンディアは思い返します。
それで言えば彼の背後に控えているシグルド騎士団長も美しい方ですが、リューグ殿下は彼とは一味違う美しさがありました。
姫にはまったくわからないことですが、常に伏せられた目蓋は眠たげでありながらも色気を感じさせましたし、寝間着姿でやってきてしまった姫を決して正面から見ない配慮は騎士を従える者として完璧過ぎました。
そこへきて更に「絶世の美姫」などと褒められたものですから、ディルアンディアはさっきまでの不安感などどこ吹く風です。
言われてみればユルグフェラーにビナギアを裏から狙うメリットなんていうものもありません。
国境が接している上に大国であるユルグフェラー帝国がその気になればビナギアなんぞ一日で併呑されてしまうのは目に見えているのです。
それなのに、わざわざ国王を直接狙って王族を全て殺そうとするだなんて、そんなのは労力の無駄というものでしょう。
でも、では、なんで自分たちは狙われたのだろうと、ディルアンディアは少し真面目な表情になりました。
なんであんなにいい方が殺されなければいけなかったのか。
何故、愛する父の生死も分からぬ状況に追い詰められなければならなかったのか、ディルアンディアにはわかりません。
「……王妃様と側妃様は、とても仲がよろしいと、わたくしは思っていたのです」
「……王太子は王妃の子だったか」
「その通りです。上から、王妃の子ジョルファン王子、側妃の子イスリアード王子、王妃の子ジョセフィン姫、側妃の子のイルベット姫とフィリーネ姫の順です」
「王子2人の歳の差は」
「2つです」
「……白百合宮を使っていたのは側妃だったな。王太子の座を狙っていたという事は?」
そう、そうです。
真っ先に疑われるべきは第3王宮に住んでいた側妃イール様です。
第3王宮に配備されていた騎士たちを使って国王陛下と王太子殿下を殺し、その罪はユルグフェラーに塗りつけて自らの王子を玉座に座らせる。よくあるシナリオではそう考えるのが普通でしょう。
けれどディルアンディアは、あのイール側妃がそんな事をする人にはとても思えないのです。
王太子教育を優先していた王妃グリネット様は、自分の子であるジョセフィン姫の教育にはあまり頓着なさらない方でした。
姫君は大体他国へ嫁ぐ事が決まりますので教育はある意味では王太子よりシビアであるにも関わらず、ジョセフィン姫の姫教育が始まったのは彼女が7つになってからの事だったのです。
それも、イール側妃が状況を知って5つになったイルベット姫の監督役がほしいからとジョセフィン姫に頭を下げる形でようやく始まった姫教育でした。イール側妃は、ジョセフィン姫のプライドを何より優先してして頭を下げて下さったのです。
その後は、少し年上のディルアンディアもよく第3王宮にお邪魔して姫様がたとよくお茶をしたものでした。
グリネット王妃と住んでいた第二王宮にいた頃よりも格段に明るくなったジョセフィン姫に安心して、まるで自分の娘のように彼女を可愛がるイール側妃の事を本当に尊敬したりもしました。
そんな方が玉座を狙うなんて、ディルアンディアには考えられません。誰かに唆されたとしても、子供たちを優先されるようなお方だったように思えるのです。
そう伝えると、皇太子殿下は少しだけシグルド団長と視線を交わしてから、
「ではそのグリネット王妃が全てを側妃に押し付けるために演じていた可能性は、あるか?」
そう問われて、ディルアンディアは咄嗟に言葉が出てきませんでした。
肯定も、否定もです。
グリネット王妃は厳しく美しい方でした。いつも背筋をシャンと真っすぐ伸ばして、王太子の母らしく、国母らしくいつも周囲をよく見てらっしゃったのです。
確かにグリネット王妃はジョセフィン姫を後回しにしてしまった所はあったでしょう。けれど、それは王太子教育に自ら参加するためであったとディルアンディアは思っておりましたので、仕方がないとも思ったのです。
自ら剣を取り王太子に教育をつけるなんて事は、女性としては簡単に出来る事ではないでしょう。だからディルアンディアは勿論彼女のことも尊敬していたのです。
しかし、王妃と側妃とどちらが玉座に貪欲であったかと聞かれれば、それは間違いなくグリネット王妃であったのじゃないかとも、思ってしまいました。
なんという事でしょうか。
もしそうだとしたら、もし、2人の妃様のどちらかが今回の首謀者であったなら、国王陛下を廃しディルアンディアたちも殺してしまいたい程憎んでいたという事になるのかもしれません。
そう思うと、ディルアンディアは途端に恐ろしくなってきてしまいました。
「まぁ、その事は今急いで結論を出さなくてもよろしいでしょう、殿下」
「……そうだな」
「もう夜も更けましたし、お話はまた少し情報が集まってから……でいかがでしょうか、姫」
「え、あ、あ……そう、ですね……申し訳ありません。こんな、夜に……」
「構わん」
「ヨルン。姫君を寝室へ」
「はぁい。ご案内いたしますっ」
ぐるぐると考え始めてしまったディルアンディアの思考を切ってくれたのはシグルド騎士団長の手を叩く音でした。
リューグ殿下もビクッとして顔を上げて、そのちょっと慌てた顔は先程までの憂いを帯びた顔とは少し違う幼さがあってどこか可愛らしいお顔でした。
それになんだかホッとしたディルアンディアは、メイドに促されるままに立ち上がりペコリと頭を下げました。
王族が簡単に頭を下げてはいけないと教育されてきましたが、相手は帝国の皇太子殿下。自分よりもずっと立場が上の方なのです。
ご挨拶くらいは当たり前でしょう。
「ディルアンディア姫」
「は、はい」
「……案じずとも、貴殿らを状況の分からぬ国に戻しはしない。だからそう、頭を下げるな」
「……! は、はい……っ」
そう思っていたディルアンディアは相変わらず少しだけそっぽを向きながらの、それでもディルアンディアを安心させようとするような殿下の言葉にちょっとだけ、ほんのちょっとだけ泣きそうになってしまいました。
父は無事なのか、弟たちは生きているのか。
これから自分たちはどうなるのか。
ぎゅーっと詰まっていた胸が少し楽になるような気がして、姫は今度はスカートを広げて美しいカーテンシーでご挨拶をいたしました。
それに対して片手を上げて応じる殿下はやはりちょっとぶっきらぼうでしたが、それでも全然構いません。
ディルアンディアは、この部屋に来た時よりずっと軽くなった胸を抑えながら、ずっと軽くなった足取りで寝室へ戻りました。