皇太子に助けられてから、ディルアンディアは冷たい雪が降る中で死んでいる騎士たちの顔をひとつひとつ、確かめていきました。
ロビー、ハンス、メルヴィン、アルド、バジャン。みんなみんな、第3王宮の騎士たちです。
全員の名前を確認し終えてユルグフェラーの国境付近の戦砦についた時にも、あの時に見たものを忘れないよう執事に紙とインクを頂いて一人一人の名前を残していきました。
忘れたくない、ではなく、忘れてはいけない、だとディルアンディアは思っています。
なんで自分たちが狙われたのかはわかりませんが、少なくとも第3王宮の騎士たちにはディルアンディアたちを殺す理由が何かあったのです。
全員の名前がわかるくらい懇意にしていた騎士たちだというのにと、ディルアンディアは酷いショックを受けました。
けれど、メソメソと泣いてなんかはいられません。一体何故こんな事が起きているのかを確認しなければいけないのですから、助けられたからとのうのうと眠っているわけには行かないのです。
母のルーナルアとメイドのキキ、そして乳母のマデラは疲れ切っていたのかもうぐったりと眠ってしまっていますが、ディルアンディアは到底眠れそうにもありません。
気になる事が多すぎて眠っているどころではなくて、意を決してディルアンディアは皇子殿下の所へ言って話をしようとベッドから降りました。
本当ならきちんと着替えて行くのが正しい所ですが、急いで逃げてきたディルアンディアたちに着替えなんかはなくって、この砦のメイドに一夜の寝間着を借りたのです。
その格好で廊下に出れば流石に寒くって、無骨なブーツではあんまりだとこれも借りた女性ものではあるもののヒールのないぺたんこな室内履きにも冷たさが下から登ってくるような心地がしました。
戦砦といえど皇族の使う城であるからか石造りの床にもフカフカのカーペットが敷かれていて、けれど窓から外を見ると真っ白な雪が降っていて寒さをより強く感じさせました。
いつもであればこんな夜には執事とメイドが手を取り合って暖炉の火を絶やさずに居てくれて、屋敷の中はいつだって暖かかったのに、今はただ寒いばかりです。
実家はどうなってしまったのか。父は、弟たちはどうなったのか。
ディルアンディアは、死んだ騎士たちの顔を思い出しながらグッと拳を作ってまだ人がいるのだろう明るい部屋へと足を急がせました。
城の中の作りなんかは知りませんが、部屋に案内された時に背筋のシャンとした侍女から「皇太子殿下のお部屋は一番手前のお部屋になります」と言われていたので、覚えていたのです。
なんで客人である自分たちよりも皇太子殿下の部屋が外に近いのかは、わかりません。侍女が当たり前のように自分たちに教えた意味も、ディルアンディアにはわかりませんでした。
けれど今は、あの言葉が有り難く感じます。明かりが灯っていて少しだけ明るい、大きな扉。
ディルアンディアは数回深呼吸をしてから、思い切って扉を叩きました。
「どなたですか~?」
返事はすぐに、ありました。少女のような声ですが、扉を叩いたコチラを警戒しているような雰囲気もあり、一気に部屋の中から緊張感が溢れ出したかのようです。
まるで、父がこちらを睨みつけている時のよう。
どこか懐かしさを感じながら、ディルアンディアはもう一度深呼吸をいたしました。
「ディルアンディア・ルーナルア・ラ・エンデアです。夜分に申し訳御座いません。皇太子殿下にお目通り願えないかと思いまして参上仕りました」
「姫様!? まぁまぁまぁ、少々お待ちくださいませねっ!」
自分が警戒されるのも無理はないと緊張しながら名乗ったディルアンディアは、しかしすぐに開かれた扉にびっくりして一歩後ろにひいていました。
赤毛メイドは、「まぁまぁまぁ」と言いながら綺麗に頭を下げます。ディルアンディアはそれを見て、慌てて寝間着のスカートを広げて膝を軽く降りました。ドレスではないけれど、淑女としての礼は失してはいけないと思ったのです。
メイドの彼女は部屋の奥に何かを少し報告してから、ディルアンディアにストールをかけてくれました。薄手ですがとてもあたたかく、指先が冷え始めていたディルアンディアにとってはとても嬉しい心遣いです。
それに彼女の笑顔は、なんだかとても心が落ち着きました。
「皇太子殿下とお話をさせて頂くことは叶いますか……?」
「はい~! 大丈夫なはずです!」
「ヨルン、姫を部屋にご案内してあたたかいお茶をと仰せだ」
「かしこまりました~!」
「あ……あのお方は」
「あの方は近衛騎士団長のシグルド様です! さぁさぁ姫様、お茶をご用意いたしますのでこちらへどうぞっ」
近衛騎士団長と聞いて、ディルアンディアは彼があの時に皇子の傍に常に控えていた騎士だと気付きました。シグルドと呼ばれた騎士はディルアンディアに一礼してからバスルームに消えていき、姫も無意識に彼の背中を目で追っておりました。
皇太子とは真逆の金色の髪に真っ白な鎧の立ち姿ですが胸にユルグフェラーの国章を戴く彼は皇子の自室までもを守る事を許された人なのでしょう。ディルアンディアは少し緊張しながらも、部屋の中に満ちた警戒の主は彼だったのだと理解しました。
彼が、主の敵かもしれない者を品定めしたのだろうと、わかりました。
良い騎士です。主の指示がなくとも主のすべてを守るように常に控え警戒している姿は、在りし日の父を思い出させました。
大将軍となる前、ディルアンディアの父は国王陛下の近衛騎士だったと聞いています。もしかしたら、今のような光景もあったかもしれないと、なんだか胸が苦しくなりました。
「お待たせしました、ディルアンディア嬢」
「きゃっ……!」
それからほんの少しの後、メイドの女の子が温かなお茶を出してくれてその香りを楽しんでいたディルアンディアは、突然開かれたバスルームの扉に驚いて、そこから姿を現した姿にまたびっくりしました。
黒い髪に赤い瞳。戦場では鬼のように見えていた形相もあたたかさのお陰か少しばかり弱くなった皇太子の湯上がりの姿を、バッチリ見てしまったのです。
なんという事でしょう。今まで殿方の湯上がりの姿など父か弟たちのものしか見たことのなかったディルアンディア姫にとっては、見目麗しい皇太子殿下の湯上がり姿はとても刺激的過ぎました。
あたたまって仄かに色づいた肌に、目元もまるで朱を引いたように赤く、黒い髪は美しく真っ黒な鳥の翼のようにも見えます。何より、湯上がりのローブの隙間から見える鍛えられた胸部に思わず目が行ってしまって、姫は慌てて目を逸らしました。
夜闇の中でも美しい顔をしていると思っていた皇子ですが、こうして明るい中で鎧を取り払ってみれば美しいどころではないのだとディルアンディアは初めて気付きました。
男の裸など騎士団の訓練で見慣れていたはずのディルアンディアも、流石に湯上がりの殿方の姿は見たことがありません。素晴らしい筋肉と、均整の取れた身体。
あの時ディルアンディアを助けるために騎士を一刀両断したのも夢ではなかったのだと、自分を軽々と抱き上げたのも納得の肉体だと、ちょっぴり感動してしまいました。
そして改めて、こんな時間に殿方を訪ねてきた自分が恥ずかしくなりました。
そんなディルアンディアの様子に気付いたのか、皇太子殿下はシグルド団長の背から騎士団のマントをむしり取ると自分の体に巻き付けてディルアンディアの向かいに座りました。
あぁ、勿体ない……隠された身体を少しばかり惜しみながら、ディルアンディアは皇太子殿下が促すままにお茶を一口頂きます。「……申し訳ない、いらっしゃったと聞いて、急いでいたもので……っ」
「い、いえとんでもありませんわ! わたくしこそ、こんな時間にお邪魔して申し訳ありません。でも、どうしてもお話したいことがあって……」
「話したいこと?」
こほん、と咳払いをしてから謝罪してきた皇太子殿下に大慌てしながら、ディルアンディアは慌てて本題を持ちかけます。
先ほどまでの緊張感はもうありませんが、今は別の緊張感があってどうにも落ち着きません。
皇太子殿下の顔が、とんでもなく良すぎるのです。
乾かされていない髪は悩ましげに皇太子殿下の頬や額に張り付き、マントで隠された事で先程見た胸部をより生々しく思い出させます。何より、マントでも隠すことのできない足の逞しさにディルアンディアの視線は持っていかれそうになってとても危ないのです。
馬に乗る騎士は下半身がとても大事です。ディルアンディアも馬に乗れるようになりたいと父に願ったのですが「でも下半身が太って見えるぞ」という言葉に躊躇をしたのは記憶の新しいものです。まぁ、乗れますが。
とにかく、皇太子の肉体は騎士としてとても素晴らしく、その肉体に乗っかったほんの少しの憂いを見せる美貌は驚く程に直球にディルアンディアに突き刺さりました。
かつて父が「母様に出会った時にな、これは運命だと思ったのだよ。運命が私に心臓に杭を突き刺したのだ」とまるで
目を伏せないで頂きたい。長いまつ毛が頬に影を落としているのが更にディルアンディアに刺さってしまいます。
ディルアンディアは必死に、怪しまれないように、チラチラと皇太子殿下の顔を見ないように……あぁでも見たい……という葛藤と戦いながらなんとか言葉を吐き出そうとしました。
皇太子殿下の美貌にやられている場合ではありません。
今回ディルアンディアがここへ来たのは、ユルグフェラーの方々が即座に自分たちをビナギアに送還しないかどうかを確認したいがために来たのです。
本音で言えばすぐに戻りたいのは山々ですが、情報も何もなくただ戻ろうとするのは愚の骨頂。せめて情報収集をして、何故このような事態が起きたのかを、誰が何の意図でもってこんな事をしたのかを正しく把握しておく必要があります。
そのためには、この美貌の皇太子の協力は不可欠なのです。
今怪しまれるわけには、いかないのです。
「ユルグフェラーの皆様が本当にわたくしたちの味方であるのかを、確認させていただきたいのです」
そうしてディルアンディアは、なんとか言葉を絞り出しました。
どうか今すぐ戻すなんて言わないで下さい、どうかもう少しだけおそばに居させて下さい。なんなら母たちだけでもいいので安全な場所に置いて下さい。
ディルアンディアの希望は、最初はたったそれだけだったのでした。
最初は。