エンデア公爵家は、一族のしきたりとして男児であれば父の、女児であれば母の名前を自分の名前の次につけることが定められています。
ディルアンディア・ルーナルア・ラ・エンデア姫は、つまりはルーナルア公爵夫人の娘という意味であり、ディルアンディアにとってはルーナルア公爵夫人の娘である事は何よりの誇りでありました。
ルーナルア公爵夫人は伯爵家の出でありましたがそれはそれは美しい女性でありましたので、パーティで出会った彼女に一瞬で骨抜きにされた当時まだ一介の騎士であったベルホルト公爵が是非にと求婚をしたのです。
後の公爵夫人であるルーナルア伯爵令嬢はあまりに身分違いだとその縁談をお断りしましたが、その謙虚さにさらに惚れ込んだベルホルト公爵は自分の剣の腕を彼女に見てもらい「この剣を貴方のために使う事を誓います」と、一刀両断したグリフィンの首と共に再度求婚をした、という話は、王都の若い娘たちの憧れの話として何度も何度も語られているお話です。
ディルアンディアは剣を持つ事を憧れていた乙女でしたが、同じくらいにこの父の武勇伝にも憧れていた一人でした。
いつか、いつか王子様がディルアンディアに巻き付いた紐を斬り落としてどこかに連れ去ってくれるのだと、そう信じている乙女だったのです。
それが今まさに、こんな状況で起きている事に、ディルアンディアは驚きを隠せませんでした。
「失礼」
黒衣の騎士は自分のマントの中にディルアンディアを隠すと、騎士たちに何かの号令を発しているようでした。分厚くあたたかいマントの中からは何を言っているのかはよく聞こえませんでしたが、通りの良い、美しい声だという事は分かります。
何より、ディルアンディアが凍えていた事に気付いているのか優しく彼女の腕を擦り、マントで包み込むようにあたためてくれているのです。ディルアンディアが「あぁこの方なのだわ」と勘違いをしても仕方のない事でしょう。
しかし、マントの中のでディルアンディアは気付きました。
黒衣の騎士の逞しい胸元。胸部を隠す鎧に、何かの紋章が刻まれているのです。
ディルアンディアは、彼がどこの騎士であるかを知るためにその鎧をゆっくりと、女性らしいほっそりとした指先で撫でました。
尖った部分に、恐らくは翼を持つ獣の紋章です。最初は
ディルアンディアは、この紋章を知っていました。よくよく、知っていました。
「ユルグフェラー帝国の紋章……!?」
そして、ディルアンディアはこの紋章を心臓の上に戴く事を許されているのが帝国の王族だけである事も知っていました。彼女の祖母が、父が、同盟を組んでいる帝国とはどんな国なのかを彼女に教え込むために教えてくれたのです。
だからディルアンディアは大層驚いて、黒衣の騎士の腕から逃れようと暴れました。しかしディルアンディアは王族の血を引いているとはいえただの姫君です。特殊能力の訓練は父にやんわりと止められ、剣だって弟たちが握っていた木で出来たおもちゃの剣を何回か握った事があるくらい。
ですから当然、騎士が自分を抱く腕から逃れる事なんか出来ようもありません。
それでもこの腕から逃れたくて仕方のなかったディルアンディアは、叫びだしたくなる口を引き結びながら足をバタつかせました。騎士は馬に乗っていますから、その馬を踵で蹴る事が出来ればいいと、そう思ったのです。
「落ち着け、暴れるな」
「ユルグフェラーの王族が何を……!」
「とにかく今はじっとしていろ。お前の母らがどうなってもいいのか?」
マントからなんとか首を出すと、呆れたような顔の黒衣の騎士と目が合いました。
夕日よりも真っ赤な瞳に、夜闇のような真っ黒な髪。
ランタンの光で僅かに赤くも紫にも見えるその髪と鎧の高貴な黒さに、ディルアンディアは暴れる足を止めてまた唇を引き結びます。
ビナギア王国を攻撃した帝国の王族が何を卑怯なと、叫べるのならば叫びたかった。
けれどディルアンディアの背後、彼女の見えない所では剣と剣のぶつかり合う音がして、馬の
どちらが勝ったのかなんていうのは、目視で確認するまでもありません。
悔しくて悔しくて思わず泣き出してしまいそうなのをディルアンディアは必死に唇を噛み締めて我慢しました。
「殿下、片付きました。確認なさいますか」
「あぁ、行こう」
殿下、殿下か。あぁそうでしょうとも。この高貴な黒の鎧に胸部の紋章は王族でなければ有り得ない。
ディルアンディアは殿下と呼ばれた黒衣の騎士のマントの中でぎゅうとマントを握りしめました。手触りのいいマントです。ディルアンディアの細い指で握り込んだその生地の手触りは極上で、どれだけ力を入れてもきっとシワ一つ残らないことでしょう。
黒衣の皇子は出来るだけ揺らさないように馬を操ると、ディルアンディアを連れたまま馬車まで戻って行きました。
マントが少しだけ開かれると、馬車の外に出ている母・ルーナルアと驚いた顔をしているマデラとキキが居ました。彼女たちは呆然と地面を見つめていて、ディルアンディアがやってくるのに気付くと皆一様にくしゃりと顔を歪めて涙目になります。
驚いて御者の姿を探すと、彼も黒衣の皇子が連れてきた騎士に地面を指さしながらしどろもどろに何かを言っていました。
一体どうしたのかとディルアンディアも地面を見ると、すぐ足元に先程皇子が斬り捨てた騎士の死体がありました。
死体が着ているのは騎士たちが常に身にまとっているユルグフェラーのマントで、血まみれになっていても皇子の鎧の紋章と同じものだという事が分かります。
しかし皇子が割ったと思われる兜の下から見える顔には、ディルアンディアも見覚えがありました。
「第3王宮の騎士の……バロー!?」
「あぁダイアナ……そうね、そうよね。あちらにも第3王宮の騎士様が倒れていらっしゃるの」
「ダイアナ様……」
ルーナルア夫人が堪えきれないような涙をこぼすのを見て、ディルアンディアは皇子の手を振り払うと急いで母の元へ走りました。
ヒールの折れた靴では走りにくくって、その場で靴を脱いで母を抱きしめるディルアンディアに、ルーナルア夫人はついに泣き出してしまいます。
マデラとキキは困惑した表情ながらもディルアンディアの無事を見て安堵の涙を流し、唯一ディルアンディアだけは必死に、必死に頭を巡らせていました。
「第3王宮とは?」
「ビナギアにおいては別名白百合宮。側妃とその子等が暮らす宮であるはずです」
「ほぅ、側室の」
雪でびしゃびしゃになっていく地面はディルアンディアの足から徐々に体温を奪い、冷たさは段々と痛みになってゆきます。
しかしいつの間にか馬を降りていた皇子がディルアンディアにとルーナルアを部下らしき騎士と会話をしながら自分のマントで包み込むと、それとなく馬車の中へと導いていきました。
馬車にはいつの間に無くなったドアの代わりに誰かしらの騎士のマントで出入り口が塞がれており、中に入ると外よりもずっと暖かく感じます。
それからマントの隙間から男もののブーツと布が差し出されました。皇子の手ではなく、別の誰か騎士の手だと鎧の色だとわかります。
足を拭いてこれを履けというのかと理解したディルアンディアは、少しの逡巡の後に布とブーツを受け入れました。
先ほど見た地面に倒れていた騎士は――つまりディルアンディアたちを追いかけていた騎士は、ビナギア王国の騎士だったのです。
それも、今まで何度も顔を合わせたことのある第3王宮付きの騎士。他の騎士たちの顔を確認してはいませんが、もしかしたら他の騎士たちも顔見知りかもしれません。
ディルアンディアは足を拭ってブーツに足を突っ込むと、母に黒衣の皇子のマントを譲ってから勢いよく布を翻して外に出ました。
途端に周囲がざわめき、黒衣の皇子の赤い目も丸く見開かれます。
「騎士の死体を確認させて下さい。名前のわかる者は全て、名前を言います」
「……無惨な死体もあるぞ。女が見るものではない」
「わたくしを誰だとお思いです? わたくしはディルアンディア・ルーナルア・ラ・エンデア。大将軍ベルホルトの娘ですっ」
ディルアンディアがきっぱりと言い放てば、赤目の皇子はまた目を数回瞬かせると口角と目尻を三日月のように引き上げて――笑ったのです。
その笑顔といったら、まるでこの場所の殺戮を全て一人で背負ったかのような笑顔で。
けれどディルアンディアは軽く身震いしながらも彼の眼差しに負けぬよう、歯を食いしばりながらも紫の瞳で睨み返したのでした。