ビナギアと呼ばれる小国には、それはそれは美しいお姫様が居りました。
王国を反映に導いた女王の孫娘である公女・ディルアンディアは光を受けると真っ白にも見える不思議な金色のふわりとした髪と、まるで夜空のような気高い紫の瞳を持ち、その細身の身体でありながらも決して臆病ではなく人々に笑顔を振りまく、それはそれは理想の姫君であったのです。
しかしビナギア王国の繁栄は、ある夜突如として崩壊しました。
すっかり寒くなり、雪もちらつき始めようかというある日のことです。王宮に隣国・ユルグフェラー皇国の騎士たちが突如押し寄せ、丁度食事会を行っていた公爵家と王家の者たちを次々と襲ったのです。
その襲撃により国王でありディルアンディア姫の伯父であったダグラ―国王とその長女のジョセフィン王女が瞬時に命を奪われました。
誰かが助けを出す暇もない、一瞬の出来事でした。
「逃げなさい! ダイアナ!」
一番最初に声を張り上げたのはディルアンディアの父である国王の弟あった大将軍ベルホルト卿でありました。彼の息子である双子の息子たちも剣を抜き放ち、王妃や王太子を守るためにユルグフェラーの騎士たちに立ち向かいます。
しかし剣を持たぬ乙女たちに出来る事は何もなく、ディルアンディアは母と付き添いの乳母マデラ、そしてメイドのキキを連れて王族にのみ使用が許された隠れ通路へと身を躍らせました。
国王の側室の妃と彼女の子供たち、そして王妃と王太子を先に逃がしたディルアンディアは、彼らの無事を祈りながら入り組んだ通路を走ります。この隠れ通路はやがて外へと繋がる道ですが、途中の道は万一追っ手がついた時のためにぐにゃぐにゃに入り組んでいるのです。
ディルアンディアは一番年嵩であるマデラを、若いキキはディルアンディアの母の手を取って必死で走りました。ドレスが汚れようがヒールが折れようが、そんなものは命と比べれば安いものなのです。
ようやっと外へとたどり着いた時、空からは雪がちらつき王宮が燃え上がる炎が不気味に真っ暗な空を照らしていて、ディルアンディアは身震いをしました。
王宮が燃えている。
しかし、彼女たちは戻るわけにはいきません。いつどこでユルグフェラーの騎士に遭遇するかわからないのです。
ユルグフェラーとビナギアは、長く同盟を組んでいた国でした。
かつてユルグフェラーの一部であったビナギアは200年程まえに突如帝国に反旗を翻し独立し、それに怒ったユルグフェラーと長く戦争状態にあったと、ディルアンディアは教わっていました。
その戦争と緊張状態を終結させ同盟へ導いたのが彼女の尊敬する祖母たる女王であったことも、知っています。ですがその祖母の代が終わり、伯父であるダグラ―王の後継者争いが始まった途端にユルグフェラーはこうして牙を剥いたのです。
時期的に言えば丁度いい時期。
けれど、祖母が締結させた同盟を踏み潰して襲ってきたユルグフェラーの事が、彼女はまるで理解出来ませんでした。
理解、したくもありませんでした。
なにしろ、彼女たちの向かう先にはいくつもの死体がありました。
子供の頃から面倒をみてくれた王宮の侍従たち。メイド、庭師に掃除夫の姿もありました。見たことがある顔も、見たことがない顔も、そこには無惨な死体として残っていたのです。
ディルアンディアは酷く腹を立てましたが、彼女に出来る事などただ逃げる事しかありませんでした。偶然にも無事であった彼女の家の馬車と、その馬車の下に隠れていた御者に頼んで馬車を急がせて、とにかく遠く遠くへ逃げる事しか出来なかったのです。
彼女は知っていました。もしも王宮に居た王族が皆殺されてしまえば、王族の血を引くのは自分しか居ないという事を。
ビナギアでは女性も王に成ることが許されているため彼女にも高位の王位継承権があり、国を守るためにも自分は死んではいけないのだという事を、知っていました。
ディルアンディアは美しい姫でした。
しかしその内面は、ただ美しいだけではなく気が強く、祖母のような剣を持ち国旗を振るって戦場に出る女性に憧れている姫君だったのです。
しかしビナギア国の女に求められているのは美しさと、穏やかさ。ディルアンディアの望む女性像の真逆の姿でした。
だからこそ、大将軍であった父に剣の教えを請わなかった事を馬車の中で彼女はただただ悔いました。もし自分にも剣を持つ事が許されていれば弟たちと共に戦う事が出来たのにと、涙を浮かべながら悔いました。
しかしすぐに彼女は悔いている場合ではない状況に陥ります。
ユルグフェラーの騎士たちが追いかけてきたのです。ディルアンディアの生家・エンデア公爵家の紋章がついた馬車はとても輝かしいものです。その馬車がこの夜に王都を疾走している姿はとても目立ったことでしょう。
騎士たちは騎士馬に乗って、女を四人乗せた馬車を追いかけてきます。もうあといくらもしないうちに馬車は追いつかれ、抵抗する事の出来ない女たちは無惨に殺されてしまう事でしょう。
ディルアンディアは覚悟を決めました。
せめて拳の一撃でも騎士たちに食らわせてやろうと、誓ったのです。
ビナギア王国の王家の血には特殊な力が宿り、それぞれ別のものですが様々な能力を得る事が出来ます。ディルアンディアにも勿論その力は与えられており、この中で唯一騎士に対抗出来そうなのは彼女だけだったのです。
大将軍・ベルホルトの特殊能力【超膂力】は他国にも有名で、一撃でグリフィンの首を斬り落とし妻への求婚に捧げたという話は今も語り草になっているほど。
彼女の能力はそれほどのものではありませんでしたが、しかし少しでも――一撃でも、返してやりたかったのです。
「わたくしを誰だと思っているの!! わたくしはディルアンディア・ルーナルア・ラ・エンデア! 大将軍ベルホルト・ギルデール・デ・エンデアの娘よ!」
馬車に取り付こうとする騎士の手を、ドアをあえて内側から開いて叩き落とします。
みぞれ混じりの冷たい風が彼女の長い髪をかき乱し、まるで真っ黒い髪であるかのように見せました。
騎士たちは皆弓を持っていて、馬車についているランタンの輝きが僅かに矢じりに反射して見えています。あの矢じりはもうあといくらもしないうちにディルアンディアの身体を貫く事でしょう。
でもその前に一撃でも。
大将軍の娘として恥ずかしくない死に方を。
ディルアンディアは、父に教わった力の使い方を、制御を、思い出していました。
その時でした。
彼女の後ろから、つまりは彼女たちの向かう先の森から沢山の矢が飛んできたのです。
その矢は寸分違わず騎士たちに突き刺さり、逆にディルアンディアたちの馬車には一本も掠りはしませんでした。御者のダズビーは悲鳴をあげていましたが、ディルアンディアにはわかりました。
この矢は、自分たちを助ける矢なのだと。
誰かが自分たちを助けに来たのだと。
「馬車に戻れ、大将軍ベルホルトの娘。お前の勇猛さは、我が見届けた」
声と共に、黒い森から黒い馬と黒衣の男が飛び出して来たのは、それからすぐの事です。
ディルアンディアはその声を聞いて咄嗟に馬車の中に戻ろうとしましたが、それはユルグフェラーの騎士の手で阻止されてしまいました。いつの間にかこの近くまでやって来ていた騎士はディルアンディアを守っていた馬車の扉に掴みかかり、馬車に飛び乗って彼女を叩き落とそうとしたのです。
ディルアンディアは抵抗しましたが、騎士の力にはかないません。
このままでは落ちてしまう。
舗装もされていない土塊の道にこの速度で落ちれば、いくらなんでも無事ではいられません。ですがディルアンディアの身体は段々とバランスを崩し、彼女の母が泣き声のような悲鳴をあげました。
そんなディルアンディアを助けたのは、真っ黒な腕でした。
彼女を下からすくい上げるように抱えたのは真っ黒な鎧の男で、彼女をあっという間に馬の上に乗せてしまうと馬車の扉にすがりついていた騎士を扉ごと一刀で斬り捨ててしまったのです。
驚いた、なんてものではありませんでした。
「勇敢な姫だな」
真っ黒な夜に輝く真っ赤な瞳の真っ黒な騎士は、彼女を抱え抱き寄せながらそう言って笑います。
それが、ディルアンディアと後に共に暮らすことになる男との出逢いでした。