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第8話

 すぐに行くから、と言ったことは覚えている。着替えもせず、部屋着のまま、スマホだけをハーフパンツのポケットに捻じ込んで、自転車のペダルを思いきり踏み込む。今野の家に着くまでの間、どんなことを考えていたのか全く思い出せない。ただ、早く今野に会いたかった。会って、私にどうにかできるようなことじゃないとしても。


 今野のアパートの前。自転車のスタンドを立てる時間すら惜しく、車が一台も停まっていない駐車場に放るように倒した。


 外階段を駆け上がる。もつれそうになる足を何とか手すりを掴んで耐えて、チカチカと蛍光灯がちらつく二階の外廊下へと上がった。上がる息は、走って来たからなのか、それともこれから私を待ち受ける光景に緊張しているからなのか分からない。お腹の辺りがぞわぞわとしている。


 ココロちゃんに連れてきてもらったときよりも、重苦しく感じる扉がある。乾く喉を潤したくて、無理やり唾を飲み込んだ。玄関横にあるチャイムを鳴らそうと思い、指を置いて躊躇する。隣の部屋に明かりはない。もうすでに寝ているのか、それとも不在なのか分からない。でも、部屋の中からあの女の人の声が聞こえるほどだ。きっと、壁は厚くないのだろう。チャイムから指を離し、扉を小さく叩く。中から誰かが出てくる気配はない。ドアノブに手を掛ければ、鍵は開いていて、簡単に中へ入ることができた。


 今野の部屋の玄関先は、灯りがなく薄暗い。複数の靴が散乱している。玉暖簾の掛かった向こうの部屋だけが明るく、ちょうど、倒れている誰かの、天井に爪先が向いた足が見えた。


 その部屋へ向かう自分の足は、鉛のように重い。ほんの数メートルしかないのに、永遠にその場所へは辿り着かないような、辿り着いてはいけないと言われているような気さえする。


「今野……いる?」


 お腹に力が入らない。呼び掛ける声は掠れて小さくなる。ようやく辿り着いた目の前の玉暖簾を震える手で払い、足を踏み入れる。重い空気が、ずっしりと私に圧し掛かるようだ。


 部屋の真ん中に呆然とした様子で立ち尽くす今野がいる。投げ出されるようにひっくり返ったテーブルと床に転がったマグカップ。零れ落ちたコンビニかスーパーの総菜弁当。その横に仰向けで、目を開いたままの中年男性と乱れた髪で顔が隠れたココロちゃんが倒れていた。男の人のほうは、今野にはあまり似ていなかった。


 男の人の首元にタオルが掛かっている。その下に青と赤が混ざったような痣が巻きつくように入っているのがうっすらと見えた。天井のどこかを見つめるその瞳には光はなく、死んでいるのだと思った。


「ココロちゃんは……」


彼女のそばに腰を下ろす。顔に被さる髪をよけようと触れれば、ほんのりと温かいのが分かった。


「ココロは、生きてる。大丈夫」

「なにが、あったの……?」

「バイト行って、帰ってきたら、こいつが、ココロのこと襲ってて。薬飲ませてたみたいで、ココロ意識なくて……。それで……父さんの、首……しめて……」


 今野の目から落ちた水滴が、床をぽつりと鳴らす。今野の手には、見覚えのあるココロちゃんのスマホが握られていた。


「どうしていいか、分かんなくて、吉岡しか思い浮かばなくて、吉岡に電話した。ごめん、巻き込んで……」

「うん」

「あれ……やっぱり、これ、やばいと思う。吉岡は帰って、」

「とりあえず、ココロちゃんは布団に寝かせてあげよう」


連れてってあげてくれる? と、今野に訊けば、彼は困ったように一瞬瞳を大きく揺らしてから頷いた。


「ココロちゃんのスマホ、持っておくから」

「うん」


スマホを受け取れば、今野は急いで居間から続きになっている襖で仕切られた部屋へと行く。そこはココロちゃんの部屋なのだろう。薄暗い部屋の中に可愛らしいぬいぐるみが置いてあるのが見えた。


 押入れから布団を引っ張り出して、乱雑にそれを伸ばすと、今度はまたこちらへ戻って来て、ココロちゃんの背中と膝の裏に手を差し込んで抱え上げようとした。


 その間に私はしなくちゃいけないことがあって、ココロちゃんに申し訳ないと思いながら彼女のスマホを点けた。ロックはかけられていなくて、簡単にホーム画面が表示される。ラインのアプリから私とのトーク画面を開いて、ここから今野が掛けてきた通話履歴を削除した。跡形もなく綺麗に消えたマークにホッとしていれば、今野から「吉岡」と声が飛んできた。顔を上げれば、眉を下げて困った顔をしている今野が私を見ている。


「ごめん、俺、手に力入らなくて。ココロ、一緒に運んでもらっていい?」

「あ、うん。いいよ」

「ありがと」


ココロちゃんの脚元へ近付けば、脇に両手を差し込む今野の手が微かに震えていることに気付く。これのせいで力が入らないのだろう。ふと見えた、今野の手の平には擦れたような赤い線が刻まれていて、私はただ目を逸らすことしかできなかった。今は、あまり、深く考えたくなかった。


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