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第4話

 ココロちゃんから連絡があったのは、それから三日ほど経った頃だった。

昼休み中に学校が終わる時間をメッセージで聞かれ、それに返信をすれば、「学校終わりに中学校まで来て欲しい」と何分もしないうちに返事が来た。可愛らしい、白くてふわふわした犬のイラストが「おねがい」と手を合わせているスタンプに思わず口元が緩んだ。断る予定もなかったけれど、こんなに可愛いお願いをされてしまったら、行かない理由なんてどこにもないだろうと思った。


 授業が終わり、自分でも分かるくらい早足で下駄箱へと向かう。途中出会った今野に、何をそんなに慌てているのかと少し心配された。人と待ち合わせをしているのだと返せば、彼は「事故るなよ」と言う。頷いてみせて、その直後、さっそく段差に躓いて、とんとんと跳ねてから何とか踏ん張った。気まずさから後ろを振り返れば、今野が「落ち着け」と呆れたように笑っていた。


 今野に手を振って別れ、先日教えてもらった中学校へと急ぐ。

 正門が見えてきた頃には、門の奥から続々と生徒たちが出てきているのが分かった。

少し端に避けて、門の近くに立つ。高校生がこうやってこの場所に立っていることが珍しいのだろう。時々、帰路に着く生徒たちからの視線を感じて、少し居心地が悪かった。


 到着してから五分ほど経った頃、「お姉さん」と声を掛けられ振り向く。


「ごめんね、遅くなっちゃった」

「全然。さっき来たばかりだから」

「目立つし、居心地悪かったでしょ。私がそっちに行けば良かったかも」

「大丈夫だよ」


そう? と申し訳なさそうな顔をしながら首を傾げたココロちゃんの、三つ編みに結われた髪が揺れる。こういう髪型をしても垢抜けて見える彼女のセンスに密かに感心してしまった。私がやっても、どこか幼くみえるだけだろうと想像する。


「この前のお金、すぐに返したかったんだけど。財布を家に忘れてきちゃっててさ。すぐ近くだから、一緒に来てもらってもいいかな」

「それは大丈夫だけど、」

「本当? ごめんね」


百円くらい良いのに、と言おうとした私に気付いたのだろう。食い気味に彼女は言うと、私の腕を絡めとって、引っ張るようにして歩き出した。


 彼女の家は、三階建てのアパートだった。外階段を上がり二階へ上がる。そのまま廊下を直進し、一番奥の玄関へと向かうココロちゃんに着いて歩く。


 歩きながら、紺色のスクールバッグの中に手を入れたココロちゃんは、大きなクマのマスコットが付いた銀色の鍵を取り出すと、鍵穴に差し込んだ。


「ああ……ごめんけど、ここで待っててくれる?」


 玄関扉を開けるなり、彼女はそう言って私を振り返った。


「うん、ここで待ってるね」

「ありがとう」


 最低限開かれた扉に体を滑り込ませるようにココロちゃんは部屋の中に入っていく。家の中を見せたくない事情でもあるのだろうと思い、扉が閉まるまで目を逸らして待った。


 閉められた扉の前。何をするでもなく、ただ彼女が出てくるのを待つ。時折吹く風に乗って、先ほどまで私たちがいた中学校のほうから吹奏楽部の音色が聞こえてきた。


 外廊下にある手すり壁に背を預ける。吹奏楽部の音色以外に聞こえてくる音もなく、その静けさにお腹の辺りが緊張しているときのようにむずむずとした。知らない場所にぽつりと立つ自分。この町に来てから感じている孤独に、じわじわと飲み込まれていくような感覚が、私の首筋を伝っていくような気がした。


 ココロちゃんが家の中に入ってから何分ほど経った頃だろうか。何かが割れる音に肩が跳ねた。さっき彼女が入っていった部屋の中からだ。直後に響く、女性の高く鋭い声。それが怒鳴り声であることに気付き、跳ねた肩が自然と縮まる。

 怒っているのが誰なのかと、困惑する思考の中で考える。この声は誰の声なのかと、記憶の中から引っ張り出そうとしている。ココロちゃんの声は、こんな声だったか。いいや、若い声ではないと気付き、部屋の中にココロちゃんではない誰かがもう一人いることを理解する。


 大丈夫かどうか一声かけるべきかと、震える手をドアノブに伸ばしかけて、勢いよく開かれた玄関扉に、慌てて手を引っ込めた。


 開いた扉の勢いそのまま、出ていこうとしていた女性と目が合う。私を見て、その女性は一瞬身体を固まらせた。


 年齢は四十代半ばといったところだろうか。ゆるく巻かれた黒髪はポンパドールに結われている。真っ赤な唇と、甘苦い香水の香りが強く私の中に残る。

 女性は一度、部屋の中と私を交互に見てから、溜息と共に、


「あんな奴と、よくトモダチやってるね」


と、吐き捨てるように言った。その声に、先ほど部屋で怒鳴っていたのは彼女だと理解する。私の返事なんて彼女は最初から待っていなかったようで、唇と同じくらい赤いハイヒールの踵を鳴らしながら階段を下りて行った。


 手すり壁から少し身を乗り出し、女性の姿を追う。タイミングよくやって来たタクシーを止め、慣れた動作で車に乗り込むと去っていった。五分もなかったであろう嵐のような時間に、詰まりかけていた呼吸がやっと再開される。


「あ、ココロちゃん」


 未だ部屋の中にいるはずのココロちゃんの存在を思い出し、恐る恐る扉を開ける。陽の光があまり入らず、薄暗い廊下。そこから真っすぐいった場所に、ピンクと白の玉暖簾がぶら下がっている。玄関を開ければ丸見えになってしまうその部屋を、それで目隠ししているようだ。


 長い玉暖簾の隙間。時折風に揺れるそこから、ココロちゃんがしゃがみ込んでいるのが見えた。

 微かにガラス同士がぶつかるような音がする。


「ココロちゃん」


 そっと声を掛けてみる。床に散らばり、窓から差し込む陽の光でキラキラと光る何かを拾おうと手を伸ばしていた彼女が、ゆっくりと私を振り返った。


「ごめんね、お姉さん。騒がしくて」

「ううん。大丈夫だよ」


 靴を脱いで、部屋の中に入る。玉暖簾を潜れば、グラスが一つ、割れて、転がっていた。


 ココロちゃんの横にそっと私もしゃがみ込む。ごめんね、ともう一度彼女が言った。


「……さっきの人って、」

「ママじゃないよ。お父さんの彼女。よく家に来るんだ」


 本当に嫌だ、とココロちゃんは鼻に皴を寄せて、苦い顔をする。私から聞いておいて何も答えられない。それでもココロちゃんは、それに対して特に気にしていないのか、気にしていないというよりも気付いていないような素振りで、話を続ける。


「私とあの人、本当に合わなくてさ。よく家にいるから、あんまり帰りたくなくて」

「そうなんだ」

「今日は仕事って言ってたから、この時間にはいないだろうなーって思って来てみたらだよ。ここは私の家なのにさ、なんで私が、」


興奮気味な口調。震える早口な声が止まり、その合間に「うん」と相槌を打った。ココロちゃんは、その続きを喋ることはなく、少しの間俯いたままだった。その時間が長いように私は感じたけれど、本当は一分もなかったかもしれない。


 ココロちゃんが、未だ転がったままだった、割れて大きく欠けてしまったグラスを手に取る。それを覗き込むように掲げ、呟くように口を開いた。


「あいつらのせいで、ママは、私たちのところに帰ってきてくれない。だから、あいつのこと大嫌い」


 彼女が、玄関を開けるなり、私に外で待っていて欲しいと言っていた理由は、痛いほど理解できた。


 ココロちゃんのことは、まだ全然、何も知らない。近くの中学校に通う女の子だということくらいしか分かっていない。でも、それでも、愛くるしく表情を変えるココロちゃんの可愛さは、初めてコンビニで会った日から分かっていた。そんな彼女からスッと表情が消えていく。もしかしたら、こっちの顔が彼女の素顔なのかもしれないと思ってしまうほど、コロコロと表情が変わる彼女よりも、その姿が自然にみえてしまった。そして、私は、あのメッセージアプリのアイコンの違和感にようやく納得がいった。 

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