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第2話

 蛇口を捻る音がする。それから勢いよく流れる水が、金色の鍋を打つ音が続いた。

 野菜が詰められたビニール袋を、キッチンに立つおじいちゃんの後ろにある食卓に置く。なんて切り出して良いか悩み、袋の持ち手を指先で弄んだ。「あのさ、」と意を決して話しかけた声はつっかえ気味で嫌になる。こんなもの貰わなければおじいちゃんに話しかける必要もなかったのに、と後悔した。酷い八つ当たりだと理解はしている。


「なんだ」

「あのさ。これ、貰ったんだけど。野菜。誰からだったかな……同じクラスの子なんだけど、」

「そうか」

「お返しとか、したほうがいいかなって」

「お前は気にせんでええ」

「気にせんでって……。誰か分かるの?」

「大体誰かは分かる」


 私のほうを一度も見ることもなく、おじいちゃんはそう淡々と言う。そんなことあるのだろうか、と思いながらも「あ、そう」としか返すことが出来なかった。


 とん、とん、と、ゆっくりと包丁がまな板に当たる音がする。どぽどぽと鍋に張られた水の中に、大きく切られた野菜が落とされていくのを目で追った。

 こっちに来てから料理はおじいちゃんが作ってくれている。来たばかりの頃に手伝うと申し出てみたけれど、「あいつの分がお前になっただけだ」と言われてしまってから、ただ料理が出来るのを待つだけになってしまった。おじいちゃんが言う「あいつ」は「おばあちゃん」のことなのだけれど、もう一年くらい入院生活を続けていてこの家にはいない。おじいちゃんがお見舞いに行っているのかいないのかも分からないし、今、おばあちゃんがどんな状態なのかも私に詳しく話してくれたことは一度もない。


 かたかたと揺れる鍋の音に混ざって、電話の呼び出し音が鳴っている。廊下に置かれた台の上で、電話のランプが音に合わせて光っているのが見えた。


「私、出るよ」


 おじいちゃんに向かって言う。こちらを振り向くことはなかったけれど、頷いた姿を確認してから受話器を取りに向かった。


「はい、もしもし」

「あ、こちら。明豊医療センターの、」


 落ち着いた男性の声はそう告げた。「深山さんのお宅でしょうか」と問われ、「そうです」と答える。その名前は確かおばあちゃんが入院しているところだったはずと、目の前の壁に貼られた紙へと視線を動かした。日に焼けて、少し茶色っぽくなった紙に、太いマジックで『明豊医療センター』と書かれているのを見つける。その字は流れるように隣の字とくっつく癖があって、どこか無骨な感じからおじいちゃんが書いたものだと私は決めつけた。


 おじいちゃんに電話をかわって欲しいと言われ、保留ボタンを押し、おじいちゃんを呼ぶ。ガスコンロを切る音がする。すり足気味な足音と共におじいちゃんはやって来て、やっぱり無言のまま私から受話器を受け取った。

 電話は恐らくおばあちゃんのことだろうから気になったけれど、近くにいることを咎められるのも嫌で、「はい」「はい」、と返事をするおじいちゃんを横目に私はキッチンへと戻った。


 鍋の蒸気でほんのりと温められた空気が私を包む。食卓の、少し背の高い椅子に腰を下ろしたのは良いけれど、特にやることもなく、自然と耳が廊下のほうへ傾いた。おじいちゃんが話す声がぼそぼそと聞こえてくるけれど、何を言っているかまでは聞き取れない。おばあちゃんの調子があまり良くないという報せだろうか。病院からの急な電話は、どうしてもそういうイメージが強くて心がざわざわする。


 受話器を置く音。床をこするような足音が近付いてくる。おじいちゃんが玉暖簾をくぐる。悟られないように頬杖を机について、気にしていない素振りをする。それに意味があるのかも分からないけれど。


 おじいちゃんは何も言わず私の後ろを通り過ぎて、もう一度キッチンに立った。また、とん、とん、とゆっくりなリズムで包丁がまな板に当たる音がする。その背中はいつもと同じように見えて感情が読み取れなかった。


「ねえ、おじいちゃん」

 おじいちゃんの手が止まる。振り向きはしなかったけれど、こちらの言葉を待っているのは分かる。


「おばあちゃん、元気なの?」

「元気だったら、入院なんかせん」

「いや、それはそうだろうけど、」


 もっと他に言い方はないの、と喉元まで出た言葉を飲み込む。さっきの電話はどうだったの、すぐ行かなくていいの、と聞きたいことはあれこれと出てくるけれど、何をどこから伝えたらいいのか分からなくて、言葉が淀む。絡む思考が表れたように指を組んでみたり、手を揉んでみたりと、自分の手が忙しなく動いた。


「あのさ、」


 結局、どの言葉が適切なのか分からなかった。でも、どうしても、これだけは言わなければいけない気がした。


「おじいちゃんさ、私のお母さんが死んだこと、誰かに話した?」


 脈絡のない質問だとは理解していた。適切ではないことも分かっていた。でも、おばあちゃんのことを聞こうと思ったら、それも必然的に頭の中に浮かんできたものだった。


 おじいちゃんから小さな溜息が聞こえてきた。それから少し間があって、


「そんなこと、他人に話してどうなるんだ」


そう言ったおじいちゃんの背中が、なぜかさっきよりもずっとずっと小さく見えた。





「お母さん、亡くしたんやろう?」

「事故されたん? それとも病気?」

「どうしてお父さんと一緒に暮らしてないん?」


 同級生も、道で出会う大人たちも、私に掛けてくる言葉はどれも同じようなものばかりだった。そして、みんな習ったかのように最後には「可哀想に」と眉を下げて私を見る。可哀想か可哀想じゃないかで言えば、私だって親を失った子は可哀想だと思う。だから、自分がそこに分類されることも分かっているし、それくらいしか声を掛けることがないことだって充分に理解はしている。だけど、毎日のように代わる代わる、会う人会う人に「可哀想」だと言われ続けたら気も滅入ってくる。誰にも話していない……話す気すらなかったことをみんなが知っていて、私をそういう子だと認識して話しかけてくることに、だんだんと疲労が蓄積されていくのを感じるようになっていった。


「引っ越しや転校の疲れが出たのかもしれないね」


 頭が痛いと訴えた私に、ベッド使っていいから少し休みなさいと、保健室の先生は私の額に手を当てながらそう言った。


 特に何かの病気になっていないことは自分がよく分かっていた。この頭を重苦しく締め付けるような痛みは、自分の気持ちから来ていることも。ただ、どこかで静かに休みたくて保健室を訪ねただけなのだ。


「どう? この町は楽しい?」

「え……」

「何にもないところで驚いたでしょ」


 私もそうだったから、と先生は椅子に腰を下ろすと、机に置かれた紙に何かを書きながら優しい声で笑った。二十代半ばくらいの若い先生だ。銀縁の細いフレームの眼鏡と白衣、薄っすらと茶色に染められたストレートの髪を低く一つに束ねたヘアスタイルがよく似合っている。


「先生は、ここの人じゃないんですか?」

「ちがう、ちがう。たまたま赴任先がここだっただけ。三年くらいになるかな」

「慣れましたか?」

「何もないことに? 先生は車があるから、何か必要なものがあればすぐ街のほうに出ることもできるし」

「いいですね」

「十八歳の誕生日が来たら、すぐ車の免許を取りに行くことをオススメする」


 電車もバスも本数が少ないし、と椅子をくるりと回し私を見た先生は背もたれに背中をどっしりと預けた。


「でも、私……」


 言いかけて、一度口を噤む。先生は首を傾げて、私の次の言葉を待っているようだった。


 この町の、独特な訛りがない先生の声は心地よかった。先生ならどこか分かってくれるんじゃないかと思ったけれど、結局、「何でもないです」と口にするのをやめた。何もない環境よりも、この町の人の距離の近さが苦手だと、何だかそれは言葉にしたらいけないことのように思えた。その理由はうまく言葉にできないけれど、怖いという感情が一番近かった。


 上履きを脱いで白いシーツが綺麗に整えられたベッドへと上がる。


「好きなだけ休んでいきなさいね」


 先生がそう言って、ベッドをぐるりと囲む薄手のカーテンへと手を掛けたのと同じタイミングで保健室の扉が開けられた。


「スミちゃん、絆創膏ちょうだい」


 軽い声が響く。「スミちゃん」とはこの先生のことらしい。先生はカーテンを掴んだまま扉のほうへ顔を向けて、「どうしたの?」と投げかけた。その人は上履きをちゃんと履いていないのか、パタン、パタンと音がする。


「来る途中に転んだ」


 水道で洗ってきたから消毒はいらない、と答えるその人の姿がカーテンの奥から現れる。気崩された制服。茶色く染められた髪の上のほうは、伸びて黒い地毛が見えている。その姿を私はよく覚えていた。あの日、自転車に乗って、煙草を燻らせていた人。「今野」と呼ばれていた彼だ。


「喧嘩とかじゃないよね、今野くん」

「ちがう、ちがう。ここで俺に絡んでくる奴とかおらんから」


 スミちゃんも知ってるでしょ、と続けた彼が、こちらの気配に気付いて振り向く。目が合って、思わず息をハッと飲み込んでしまった。丸っこく、けれど目尻のほうがキュッと上がった、まるで猫のような彼の目が、一度二度三度と私を捉えたまま瞬きを繰り返す。


 ただ見ているだけもおかしい。だからと言って、掛ける言葉も見つからない。勝手に気まずさから来る息苦しさを感じていれば、彼は私を指差して「あ、」と口を開いた。


「転校生の吉岡さん」

「なんで知って、」

「そんなん、転校生なんて滅多にないし。そこら中で話題になってるから」


 有名人みたいなもんだと彼は言う。それに思わず苦笑いが漏れた。


 あの日、畑道で彼を見かけてから、一週間は経つ。でも、それ以外で彼を見るのは今回が初めてだった。同じクラスだと、あのとき一緒に帰ったクラスメイトが言っていたけれど、教室で見かけたこともない。そんな彼ですら私の名前を知っているのだから、よっぽど私の存在は未だに珍しいものなのだろう。珍生物にでもなった気分だ。


「まあ、でも、」


 彼が続けて口を開く。大きな目が細められる。


「正直鬱陶しいよな」


 綺麗に歪んだ唇がそう紡ぐ。そうだよな、と妙にその言葉に納得したのは、私だって彼と一度も話をしたことなんてないのに、「今野」という名前を知っていたからだろう。

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