「うん、埋めてしまおう」
じくじくと蝕まれるような暑さの七月。
私たちは、ただ平凡に、幸せになりたいだけだった。
高校二年生になる春のこと。お母さんの死をきっかけに、私はおじいちゃんの家へ移り住むことになった。
ビルの群れに囲まれた景色は緑豊かな山々になり、アスファルトは薄茶色の畑道に変わった。葉っぱの香りと肥しが混じった匂いが、少しだけ苦手だった。それ以上に、互いに互いのことを知り尽くしているこの町の雰囲気に慣れずにいた。
町に一つしかない高校。ほとんどの子どもがここに進学する。右を見ても左を見ても知ってる顔だと、帰り道が一緒になったクラスメイトが笑っていた。まさか転校生が来るなんて、と私のことをまじまじと見ていたその子は、
「お母さん、亡くなられたんやろ? 大変やね」
と、なぜか私が話していないことを知っていて、哀れみの目を向けてくる。
「……、なんで知ってるの?」
「なんでって。この町は小さいから」
理由になっていないと思いながら、何も返せずに口を噤む。「お母さん」とその子は畑の手入れをしている中年の女性へと手を振る。大きな日よけのついた花柄の帽子を軽く上げながら、その人は「おかえりぃ」と手を振り返す。柔らかで、少し掠れたその声は、私に気付いて「深山さんのとこの子も一緒なんやねぇ」と笑った。私は知らないのに、どこの誰か知られていることが怖かった。誰が、どこまで、私のことを知っているのか分からなくて、胸の真ん中がぞわぞわして落ち着かない。
「あ、これ。持って帰り。うちの畑で取れたやつだから」
「でも、」
「ご近所なんやから、お互い様よ」
半ば強引に。その人は泥のついたゴム手袋を外して、軽トラックの後ろに積んであった荷物の中から野菜が詰め込まれた袋を差し出してきた。貰ってしまっていいんだろうか。戸惑いがちに手を伸ばしたその姿はひどく挙動不審だったことだろう。お互い様の意味も分からない。こちらからもこれと最低限同等のお返しをしなくてはいけないということなのだろうか。苦笑いと愛想笑いの間のような引き攣った笑顔しか浮かべられないことを自覚した。
この時間が永遠にも思えるような気がしたときだ。ふと、ほろ苦い香りが私の鼻をくすぐる。ちりちりと控えめな鈴の音と、タイヤが地面をこする音。振り返るより早く、学ランを着た男の子がダルそうに漕ぐ自転車が私の横を通り過ぎていった。鈴の音は自転車のベルが、がたがたした道で跳ねて、勝手にぶつかって鳴っているだけだったようだ。
明るめの茶色に染められた髪は根元が黒くなっている。遠くを見つめるように横を向いた彼の口からはすーっと煙が吐き出された。
「今野、また煙草吸ってる」
「今野?」
「同じクラスの。今日はサボってていなかったみたいだけど。あんまり関わらないほうがいいよ、不良だから」
「こら。そういうこと言わんのよ」
「失礼やから」と彼女の母親が彼女の額を軽く叩く。「でも本当のことやんか」と彼女は唇を尖らせた。不良、と私は小さく彼女の言葉を繰り返した。ぎこぎこと錆びた自転車の音はもう随分と遠くにある。染められた髪が夕日に当たってキラキラと光っていた。
左肘にぶら下げた、白色のビニール袋がガザガザと音を立てて揺れる。
同じほうの肩に掛けたスクールバッグから、うさぎのマスコットを引っ張って取り出した。
ピンク色のうさぎの下には鍵が二つ並んでいる。見慣れたほうの鍵は、処分できないままこっちに持ってきてしまった。中学生のときにお母さんが作ってくれた合鍵。もう二度と使うことも、戻ることもないと分かっているのに。
「なにしとる。入らんのか」
低く掠れたぶっきら棒な声に肩が跳ねる。後ろを振り返れば、畑道具を納屋の前に置きながらおじいちゃんが私を見ていた。畑仕事の帰りなのか、襟元に押し込まれた白いタオルは所々茶色く汚れている。
もう一度、手に持っている鍵へと視線を戻した。この家の鍵穴に合わないほうを手の中に隠すように握りしめる。
「言われなくても入るよ」
発した言葉は自分が意識していたよりも冷たい口調になってしまった。いけない態度だったと焦る気持ちから横目で視線を向けてみたけれど、それに対してのおじいちゃんからの返事はなかった。私たちの会話が少ないのはいつものことだから、別にそれに大きな不満はない。むしろ話しかけられたときのほうが反応に困るくらいだ。仲睦まじい祖父と孫の関わりなんて私には想像できない。薄ぼんやりとした記憶の中、それくらい古い思い出の中に、断片的なおじいちゃんの姿はあるけれど、そのとき、どんな表情で、どんな声色で私に話しかけてくれたのかも覚えていないくらいだ。それくらい、私はおじいちゃんと関わることなくこれまで生きてきた。だから、おじいちゃんが、一時的とはいえ、私を引き取ったことが不思議でしょうがなかった。
オレンジ色に包まれた世界。おじいちゃんは道具についた土を落としている。その背中はぽつんとしていて、孤独を感じたのはなぜだろう。おじいちゃんが私の視線に気付いて振り返る。その目から逃げるように鍵を開けて、ほんのりとお線香の香りがする家の中へと身を隠した。