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第62話 空白の池袋⑩

 宇宙からびゅーんと地上にピンを刺しクルッとコンパスを回して東西南北の牌楼はいろうを通過させ、約500m 四方の中華街を円で囲む。それは驚くほど小さかった。

 ここは働く場所であり住居地でもある。この狭いエリアに六千人もの中国人が住むことを、知ってはいたが、やはりそれは、ちょっとした、歴史上のハプニングだ。


 袁世凱えんせいがいに追われ日本に亡命した孫文そんぶんが、華僑にかくまわれ革命活動を続けていたことは有名で、成り立ちから本国の影響下にあるとも言いがたく政治的なそれは一線を画くする独自の存在であり……ありながら、はたまた海外の華僑ネットワークとの関係性も密に日本と同化し融和しながらも本国で忘れ去られた文化をさえ頑なに残す摩訶不思議な存在。そしてここは、世界一安全なチャイナタウンだ。


 裏社会は影に過ぎない。アングラ経済が表経済の数%としてもここを存続の母体としているはずのスネークアイの規模は、皆が想像するよりも遙かに大きい。

 いや、実態はよく分からない。と言った方が正しいか?

 それは一人の男の存在が大きく、彼が敷いたレールが今なお、影響している……





「ヒリョユキ~♪ 地図に落書きするとパパに怒られるぞぉ」

 candy キャンディーが板の間で平泳ぎをしている。


 電磁調理器具の上のヤカンから細い湯気が立ちのぼっていた。そろそろ茶を煎れてくれても良い頃合いだが、candyキャンディー はまだ絶賛、平泳ぎ中。しょうがない……

 ぽちゃん。ぽちゃん。ぽちゃん。シールと薄紙をはがし、スダチをくり抜いた中に茶葉を詰めこんだような奇妙な物体を適当にヤカンに放り込んだ。すぐさま爽やかな柑橘系の香りがあたりに漂う。


「ピロシキ~♪ わたしのにはお砂糖入れてん♪」

 へいへい、姫様。


「ズズゥ~~~ズズズズ・・・ゴクッ」「ズズ~~~ゥズズズズ・・・ゴクッ」


 ああ、ほっこりする。


 candy キャンディーが正座をしている。


 頭はやや重い。


 けれど、どんなときだって、人間はいようと思えば、自分でいられるものだ。






「遅くなってすまない」

 デイビスが帰ってきた。疲れた足取りだが、そこには充実した表情があった。


 忘れられた文化であった春節が日本で復活したのはごく近年のことだ。今のようなイベント規模となったのは90年代に入ってからのこと。商店主たちにとってそれは観光の目玉であると同時に、共存の象徴として自分たちが生み出した気概に満ちた、特別の行事なのだった。彼らにとっては何を置いても最優先の生き甲斐でもある。



「わっ! それ売り物の最高級のプーアル茶じゃないか? コラァ、candyっ!」

「ヒロユキがいっぱい売ったからご褒美~♪」

「ご褒美って……なんだこの売り上げ? おぃおぃ、たしかにぼったくって構わんと言ったが、あれ金メッキでダイヤも偽物だぞ? 幾らなんでもあこぎすぎる……」

 デイビスが困惑している。





「ズズゥ~~~ズズズズ・・・ゴクッ」「ズズ~~~ゥズズズズ」「ズズゥ~~~ズズズズ・・・ゴクッ」「ズズ~~~ゥズズズズ」



 三人で改めてお茶を飲んだ。売上の領収書と品目を見比べて、デイビスはまだ困惑している。領収書の複写カーボンの宛名は【ロンジョイ】様となっている。


「そうか。あの男が……って、ますます偽物売りつけちゃまずいじゃないか」

「大丈夫。あの人が身につければ偽物も本物になる。本人も気づいてたよ。ま、俺に対するご祝儀だな」

「まだ危ない仕事をやっているのか?」

「いや……、短いバブル経済だったよ。俺は良いように使われただけで、今後は直に取引するってよ」

「そうか」

「道を踏み外してデイビスに殺される前に足が洗えて良かったよ。金はまだ残ってるから、せいぜい池袋のキャバクラにでも通ってしばらく遊び惚けるさ」

 キャンディー貿易商会の玄関に差し込む西日には、もう赤みが差していた。


「彼の年齢だと30年前の天安門事件の頃はまだ子供か……祖国に絶望して何もかも捨てて、海外に飛び出したのなら覚悟が違う。関わり合いにならない方がいい」


「あぁ所詮、マフィアはマフィアでしかない。本来、ロンジョイってのは複数いて、それぞれ独自裁量権が与えられて競争するんだと……だけど日本で育った『草食系』中国人に勤まる奴はそうそういなかった。結局あの人だけになったそうだ。あの男が次のボスになるのは確定。……それに……ボスになってもらわないとこっちが困る」






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