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第53話 空白の池袋①

 その男は蹴りを放とうとしていたらしい。事前にそれは察知していた。

 蹴ろうとした瞬間、逆にこちらが相手の膝小僧を踵で強く押し込めると「うっ」と声を漏らし男はしゃがみ込んだ。


「ヒロユキ! 後ろ!」

 青木が叫ぶ。振り返れば金属バットを上段に構えた大男がいる。

 ガクッ ズウゥーン。

 だがなんの前触れもなく、大男はバットを持ったまま前のめりに倒れ込んだ。


「ジャンファミリーなめんじゃねぇぞ!」

 俺は大声を張り上げる。


 こうして、ちんけなぼったくりバーを舞台としたナイン・オン・ナインの戦闘は、こちら側の圧勝に終わった。ジャンさんはまだベンチでのびている男の頭をフライパンで叩いている。


「そろそろ逃げよう」

「なに言ってんだヒロユキ。こういうときは仕返しする気が起きないくらい徹底的に痛めつけてだな」青木が反論する。

「あと1分ここにいたら警察に捕まるか、再起不能になるだろうけど……ご自由に」

 俺は走り出した。ジャンさんはすでに俺の前を走っている。さすがはボスだ。

 慌てて青木たちも後ろから追いかけてくる気配がする。


 頼りない街灯の淡い灯りの下、ろくでなし達が池袋の歓楽街を全力疾走していた。

 狭い路地に入るたび街灯はまばらに灯りは弱くなってゆく。ラブホテル街を抜けたあたりの暗闇のコンクリート壁まで来ると、全員が背中をつけてへたり込んだ。


「ヒロユキ。おまえさっきのなんだよ? 予言者みてえじゃねえか」

「冗談だよ」

「大男はなにもしないのに失神しやがるしよ」

「知らないよ。誰かが投げた鉄のボルトでも当たったんじゃないか? ともかくあの場面で長居は無用。ボスを見習えよ。俺より先に逃げてたぞ」

 俺は青木にあごをしゃくって見せた。

 しゃくった先のジャンさんはフライパンを被ったまま、ゼェゼェと肩で息をしている。


「ボスって、こいつは倒れた相手をフライパンで叩いてただけじゃねえか! なにがジャンファミリーだよ。かっこわるい」

 青木は不満げに毒づくが、一応、ジャンさんがボスには違いない。ボスジャンだ!





 池袋。言わずと知れた、新宿、渋谷と並ぶ3大副都心の一つ。

 池袋駅の一日の平均乗降者数は300万人に迫る勢いでどのような立場の人間にも魅力的な巨大マーケット。

 だが、各所を転々とした俺もこの街にだけは足を踏み入れたことがなかった。

 かつての池袋は埼玉など近隣から不良少年たちがしゃけ遡上そじょうのように集まり、カラーギャングと称して無法地帯と化していた。子供時代それを映画で見た俺は住処すみかとしてここだけは選ばなかった。本当の弱者は、粗悪な欠陥品の暴力こそが恐ろしかった。

 でも……それも遙か昔。今の現状は全くちがう。ただこの街のカオスがなくなったわけでもない。


 この街には巨大なチャイナタウンがある。

 池袋は駅を中心として東口にはマリアが泣いて喜ぶサンシャイン60を筆頭とした巨大ビル群があり、西口に繁華街、風俗街が密集している。

 そして池袋チャイナタウンは、危険度の高い西側の北の方に厳然と存在している。


 だけれども一般的にそのイメージはない。昼間、通りを歩いたとしてもその実感は皆無だろう。なぜなら池袋チャイナタウンは中国が当時まだ貧しかった時代、出稼ぎにきた「新華僑」と呼ばれる人間が作った街だからだ。横浜・神戸・長崎の老華僑のように観光客を相手にして商売をしながら日本に同化した存在でもなければ、昨今、タワーマンションを買い漁っている富裕層とも、埼玉の西川口に大挙して押し寄せた連中とも出身地域、輩出した町(僑郷)が違う。


 つまり彼らは貧しかった。目抜き通りのビルの一階ではなく、家賃が安い地下や雑居ビルの上階、離れ地に点在しその勢力を伸ばしてきた。だから外から見ただけではその規模も実態も一般人には計ることが難しい存在となったのである。



 つい最近、突如ここで警察の一斉摘発が行われ、闇のドラック販売店や違法カジノ、売春クラブなどが摘発された。同時にマンション住まいの小規模の不良集団が、軒並み引っ張られたのだった。






 俺は青木から差し出された煙草を断った。


 ぼんやりとさっき踵で強く踏みつけた相手の膝を砕いただろうか? などと考えていた。だけど考えてもしかたがない。同情に値しない相手だけを叩く。それさえ守ればもう吹っ切るしかなかった。やるしかない。



 今、池袋は暴力の空白地帯なのだから。




















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