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第44話 ルビー&サファイア物語③


 まだ昼の3時過ぎだ。

 店の中休みに入ったので他に客はおらず、俺は手渡された名前も知らない酒の杯をただ重ねている。ちなみに本当か嘘かは自分でも定かではないが、誕生日なるものを過ぎたので、もはや未成年ではない。マリアとジャンさんは既に正体なく酔っていて、理解不能の言動をしている。この酔っ払い2人と違い俺にとってこの様なアルコールによる浮遊感覚は初めてだった。ただ心地よく、頭痛も襲ってこない。


 だからもはや居るはずもない、さきほどのヤン・クイの姿を窓の外に探す。



 思いとどまって正解だったかも知れない。

 俺には関係ないことで、器とも思えない。



 デイビス曰く、肉食でもないのに蝶は驚くほど獰猛なのだそうだ。木の蜜穴では、羽を広げた状態の平面の大きさを相手と比べ、自らの力を過信し、カブトムシにさえ戦いを挑む。でもカブトムシはあっさり引き下がる。蝶が吸う蜜など高がしれてる。彼らが戦うのは、飽くまで自分と同じく真に大きく、大量に蜜を吸う敵だけなのだ。


 蝶はますます調子に乗る。羽を広げた大きさを現実だと確信する。我が身が余りにみすぼらしく薄っぺらい存在だと気付くのは、カマキリに頭を囓られた後……





「ヒロユキ君。単品だと料金がかさむからセットにしチャイナよ」

 マリアが真新しいメニューを広げて見せる。大丈夫かいなこの子……なになに?


 酔拳コース 2800円。


 酒仙コース 3500円。



 ……どちらも料理と酒の食べ放題、飲み放題で一見、お得そうだがこれは雪香シュエシャンの罠だ。こんなコースはいままでなかった。商売だからって、少しマリアをロックオンし過ぎている。一人暮らしを始めればランチや夕食は自炊なり弁当なりで節約しないと生活は苦しくなる。競馬で一発当てたバラックの連中や、俺たちフーテン相手じゃないんだぞ?


 俺は周りを見渡して雪香シュエシャンを探した。この強欲なメスカマキリめっ!


 雪香シュエシャンは7人いた。


 テーブルを拭く雪香シュエシャン。レジで中締めをする雪香シュエシャン。マリアに紹興酒をつぐ雪香シュエシャンジャンさんの冗談に愛想笑いする雪香シュエシャン。午後の下拵えに小エビの殻を剥く雪香シュエシャン…………くそっ! 得意の分身の術か!


 だが、なめるな! ヒロユキ様の目は誤魔化せないぞ。そこだっ! ピコッ!


 ピコピコハンマーが命中した雪香シュエシャンはきょとんとした顔をしている。俺はメニューを指さし指でバッテンを作る。意味を理解したのか雪香シュエシャンは舌を出してぴょんぴょんウサギのごとく跳ね回って逃げていった。

 やれやれ……




「ばあちゃんが無理ばかり言ってごめんな、ヒロユキ」


 雪香シュエシャンの孫が小エビの唐揚げを盛った皿と紹興酒の小瓶を置き、俺の横に座った。

 ……おつかれさん。


「なぁに、雪香シュエシャンは俺たちのマスコットさ。仕事にあぶれて腹減った時、残り物を食わせて貰ったりいつも世話になってる。俺も含めてバラックの連中はみんな感謝してる。だから博打で勝ったあぶく銭は、ここで散財するのが慣わしみたいなもんさ」


「客の流れがすっかり変わっちまって、ばあちゃん……ちょっと焦ってるんだ」

「世の中、不景気だからなぁ~」

「それでも表通りの新しい店は客が押し寄せて随分と儲かってる」

「んなの、一時的なもんだ。お客はすぐ飽きてこの店にも戻ってくるさ」

「どうかな。俺なんて同業者には馬鹿にされてるよ。まともな修行してないって」

 アンニュイって字面じづらをそのまま顔に貼り付けてある。


「勘違いすんな。俺たちが食いに来るのはここが安くて旨いからだ。別に雪香シュエシャンに頼まれたからじゃねぇ。腕がいいんだから自信もちなよ」

 勇気づけたいが、自分でも云ってるセリフがむずがゆくてしょうがない。



 深刻な話をしてるってのにジャンさんは故郷に残した子供の写真を見て号泣し、それにマリアがハンカチを握りながら貰い泣きしている。大概にしろよおまえら……



「この街はこの先どうなっていくのかな? 西川口みたいに本国の人間が増えれば、それなりの商売に転換したほうがいいんだろうか?」


 埼玉県西川口。かつては有名な風俗街だったが、為政者の鶴の一声で健全化が施行されその後、活気を失い衰退していった地域である。水が澄めばそれでよしでは、世の中は回っていかない。政治とはまことに微妙なもので伊勢佐木町近くの曙町などは風営法による営業規制から抜け落ちたが故に、それとは逆に関東でも最大級の規模を誇るファッションヘルス街として活況を呈している。


 やがてその西川口の空き物件に、徐々に中国人が住み着くようになった。

 それは池袋や新宿のように繁華街の恩恵を受ける形でもなく、横浜中華街のように観光客相手に生計を立て地域と同化していく従来の華僑とも違う。中国人の純然たる居住区であり、中国人が中国人だけを相手にする、言わば、内需だけで自己完結するニュータイプのチャイナタウンとして生まれ変わったのだった。


「俺が言うことじゃないけど、俺はこのままが……俺はこの街が好きだから」

「みんなそうだよ。だけど先祖が100年かけて築いた信頼も一瞬で消し飛ぶ時代が来るのかもしれない。そうなっても……生きていかなきゃならないからな」

 その言葉には土地に根をはって生きる重みがあった。

 重いってのは軽くないってことだ。



 やはり器じゃない。俺には他人にとやかく言う資格なんかないんだ。











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