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第38話 ミッション・イブ・ポッシブル⑦

 裏道ばかり走っているせいだろうか……車窓から眺めるイブの街はどんよりと深く沈み込んでいた。空調で暖められたおかげで、腰の痛みがゆっくりと引いていく。


「こんな夜に面倒をかけちまったな」

「なぁに、最近は客の潮目しおめが変わって懐が苦しいんだ。ボーナスがもらえてありがたいよ。でもな~偽のナンバープレート諸々で相当な金額になるぞ?」

「こんな仕事を引き受けてくれるのは恐らくあんただけさ……だからそこは言い値でかまわないけれど……唐辛子スプレーボムだけは、ちょっと高すぎじゃね?」

 そう……チャイナタウン中を探したとしても、この仕事を引き受けるのはデイビスしかいなかっただろう。逆算……だからこそデイビスに頼みこんだ。


「それは奥さんが内職で作ったもんだから値引きは無し。離婚されちまう 」

「なんちゅう内職だよ……」

 お得意様を大事にするキャンディー貿易商会の経営方針に感謝しつつ、もはや俺の思考は飽和状態にあり、手がかりはゼロ、ついでに貯金もほぼゼロになった。


 ……警察の施設? まさか呪いをかけたのが公権力であるはずもなく、俺はただの勘違いで、あのビルに突っ込んだことになる。それだけでも十分に鬱状態だ。


「やばくなったら、candyキャンディーを盾にヒロユキに脅されたって言うぞ?」

「ああ、もちろんさ」

 人には守るべき優先順位がある。窮地になればより大切なものを選ぶのは必然。

 俺は最後の最後で誰からも必要とはされない。んなこたぁ、今までの人生で嫌ってほど突きつけられてきた。だから予知でも予測でもなく、こんな風にデイビスに保険をかけたわけだが……なにかあればその保険も無効になる。

 俺はそんな危うい均衡を……バランスを……絶妙に保ち生き残った。


「それであのオベリスク(古代エジプトのモニュメント)にはなにがあったんだ? 俺も若ければなぁ。もう体も心も言うことをきかねえ」

「巨大な世界樹があって、枝から天使が落ちてきた」

「はぁ? あはは、なんだよそれ? candyキャンディーがちょうどそんなアニメに夢中だ。でもその様子じゃ失敗か……だがなヒロユキ。おまえのめん玉にはまってるそれ。それは相当、原価がかかってるぞ」

 デイビスはハンドルを握り正面を向いたまま、肩でホワィのポーズを作る。


 バックミラーとにらめっこした。

 自分でさえ眼球が再生したのかと幻惑させるほどの出来栄えだ。

 これで女の子の目を見て口説くことも可能になった。

 なにせ網膜まで再現されてある。ありがとう。


 車窓に流れる景色が東京からハマに変わった。テリトリーからはぐれた子猫が母猫に襟首を嚼まれたような安心感がそこにある。山手のハマっこの気位の高さでさえも懐かしい。…………だが、それは所詮、気休めでしかない。





  記憶した覚えのない記憶と、

 「天使が落ちてくる」この神の啓示をどう説明する?




 俺の中にもうひとりの俺がいる。いや……乗っ取られたに近い。

 そいつは自信満々やるべきことを淡々とこなす。緊張もなく好きなアーティストの歌を口ずさむように。同時に明らかな俺の中の記憶の欠損が確認できる。

 しかしそれを思い出そうとするとたとえようのない倦怠に襲われる。腕立て伏せを限界までやり終えた後にもう一度、同じことを繰り返せと命ぜられたように……



「蝶の目……か」

「ん? またそれか?」

「なにかの隠語ってことはないかな? あんたが居た軍関係とか若い頃のデトロイトのやんちゃ時代とかでさ」

「ないな。演習の一環で隠語も俚言りげんも一応学ぶんだが」

 俚言ってなに? ヘアカラー? ほんとに米国人かよ。


「でもヒロユキ。それって悪い言葉と決まったわけじゃない。人間が一番優れているなんてのは思い上がりだ。人の眼は1秒間に30Hzまで点滅する光を感知できるが、昆虫はその10倍。つまりまあ、平たく言えば相手の動きがスローモーションに見えるってことだ。喧嘩なら無敵。それと紫外線を見ることもできる。蝶から見た世界は人間が考えるよりカラフルで色に溢れているのかもな。今夜のイブのように……」












「ぷりぷりプリンセスパーーンチ!」

「やめろよ~candyキャンディー。お兄ちゃん腰が痛いんだから……」

 キャンディー貿易商会の一人娘だから、candy 。

 キラキラネームと言うより凄まじくイージーだ。


「ヒロユキ。一つ言い忘れたことがある」

「なんだよ改まって? デイビス」

「蝶々はとてつもなく性欲が強い。ヒロユキもそれなりに頑張れ」

「ほっといてくれ」

 これ以上、家族のクリスマスを邪魔するわけにはいかない。

 キャンディー貿易商会からは歩いて帰ることにした。




「ヒロユキー! メリークリスマス!」

 背中から甘ったるい声がする。




「Yes! Candy!」



















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